KITSCH PAPER

HOME BOOK DAIRY MOVIE MUSIC ETC
Oh my Buddha!It is such a wonderful site that it's unbelievable.
2009年05月20日

裸の自分とどう向き合うか

090520.JPG人前で生まれたままの姿になって「自由」の大切さ教えてくれた草なぎさんが、間もなく仕事に復帰されるそうです。志の違いはあれど、吾輩も学生の頃は同じようなことをしておりました。中でもバイト先の歓迎会で、鍋に吾輩の甘エビのようなプリティなモノを突っ込んだことは今でも印象に残っています。店長(当時嫁入り前の女性)は、ナマハゲが家に入ってきたような騒ぎようで‘この子、無茶するわ〜’と仰っていました。どうやら吾輩が、しゃぶしゃぶ及び雑炊が一段落し、皆さんの箸を持つ手が止まったのを見届けてから火傷覚悟で甘エビを入れたことは知る由もなかったと思われます。まぁそんなことはどうでもよくて、草なぎさんの今後のご活躍心よりお祈りしております。〈「なぎ」は弓へんに剪〉

今回は〈「なぎ」は弓へんに剪〉を書きたかっただけで、後はおまけみたいなもんなので軽く読み流してください。
先日本屋で‘「大江か村上」から「大江と村上」’というフレーズが目に飛び込んできて、『文学地図』(加藤典洋)を購読。前半は80年代末からの著者による文芸時評、後半はそれらの執筆から芽生えた考えをまとめた文芸評論という分かりやすい構成になっています。
メインのお題になっている‘「大江か村上」から「大江と村上」’という切り口は、小説が好きな者であればやはり気になるものです。でも、‘大江か村上か’なんてのはいわゆる「文壇」という狭い庭でのやりとりで、多くの読者は大江健三郎も村上春樹も並行して楽しく読んでるんじゃないでしょうか…。少なくとも吾輩はそうです。だから‘「大江か村上」から「大江と村上」’といわれても、はじめから「大江と村上」の人間にとっては、まったくの他人事としてしか読むことができないんですよね。
そんなスタンスなので、大江さんと村上さんについての評論よりも、その後の村上さんと阿部和重さんについての評論の方がリアルな感覚で読むことができました。
やはり今の日本の小説を語るうえで『シンセミア』はハズすことはできません。加藤氏は『シンセミア』をはじめとする今の重要作の共通項として「中心(主人公)がないことが、ある」ことを指摘し、映画『マグノリア』や『ショート・カッツ』との関係について述べています。この意見はごもっともなんですが、ひとつつけ足すと『エレファント』で見られるような作り手の視点と作品世界の距離とのあやうさも重要なポイントだと思います。『マグノリア』や『ショート・カッツ』は、中心のないエピソードを描くことで社会や人の何かしらを表現しているワケですが、それはすべてを知っている神の視点で語られているため、こちらも安心して作品に接することができる。それが『エレファント』になるとよりパーソナルな視点になり、受け手もリアルな感触を感じることになりました。
これはインターネットによって人と接する距離感や視点の持ち方が変わったこととリンクしているのは間違いありません。例えばブログって、「素(丸裸)の自分」という虚像を作り上げて不特定多数の人にアピールする、今までにないコミュニケーションですよね。素(丸裸)の自分をどうセルフプロデュースするか、これは今ではマスメディアだけでなく普通の暮らしでも結構重要なキーワードになってしまってるんじゃないでしょうか。
そう考えると草なぎさんの先の行動も、先述の作品たちと共鳴している…ということはなく、100%ただの飲み過ぎです。

posted by ichio : 01:29 | | trackback (0) |