KITSCH PAPER

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2014年09月13日

掘り下げるおもしろさ

140913.jpgなかなかに凄い本が出ました。タイトルは『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』。著者は、木村カエラや椎名林檎などを手掛ける音楽プロデューサー、冨田恵一。
僕が携わっている広告の仕事では、商品の特徴や魅力をターゲットに理解してもらうために腐心しますが、必ずしもそうしなくて良いことをこの本は教えてくれます。
内容が分からなくても、発信する人がおもしろがっていること、好きなことが伝われば、受け手も興味を持つんですよね。マニアやフェチの話を聞くと、内容は理解不能でも、いや、不能であればあるほど嬉々として話す人がおもしろくなってきて、だんだんその人が好きなことにも興味が湧いてくる、あのパターン。
この本では、まさにその現象が起こっています。長いロックの歴史の中でも異才を誇るドナルド・フェイゲン。彼が1982年に発表した初ソロアルバム『ナイトフライ』について、1冊丸ごと語り尽くしているのです。曲構成からはじまり、録音方法、セッションに参加したスタジオミュージシャンのテクニック、エンジニアが果たした役割などを、豊富な知識と経験を武器に、本のタイトルと同じ“何か、かたいなぁ”という、ある意味初々しい語り口で、どんどこ掘り下げていきます。正直なところ、半分くらいは分かったのがどうかも分かりません。そして多分、ほぼすべてどうでもいいことです。でも、無性におもしろいんです、これが。
抜群にクオリティの高い音楽が、どのように作られたのか解き明かされることがおもしろいのではなく、一心不乱に語る著者の熱量の半端なさがおもしろいんです。ドナルド・フェイゲンは周りが引くほどのこだわりの持ち主ですが、冨田氏も負けてません。
名盤といわれる『ナイトフライ』ですが、個人的にはピンとこなくて、20年以上レコードラックの肥やしになっていました。せっかくなので、何年かぶりに引っ張り出して聴いてみたら、素晴らしいアルバムじゃないですか!

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2014年07月14日

人に勧める本について

140714.jpg息苦しい!
本屋さんに行くと、ひと昔前は‘うんち、したい…’となるのがお決まりでしたが、最近はこう感じます。理由は、説教クサい本がやたら多いから。エッセイなのかなと手にとってみると、書かれているのは自己啓発チックな内容で、寒イボが出るということがよくあります。
先日も某有名デザイナーの本を開けると、「そんなん自分の心の中で思といたらええやん」ということが、自己陶酔的にタラタラ書かれていてビックリしました。
こういう本が嫌いなのは、“ザ・啓発書”みたいなテイストではなくて、お洒落チックで、さも自然体ですという感じで書かれていながら、実はエゴ丸出しないやらしさが透けて見えるから。僕的には、こういう人がむっつりスケベだと思います。矢部寿恵のパッケージを見てニヤけるのは、断じてむっつりスケベではありません(キリッ)!

ということで、今回は思い切り自由を感じる、『パイプ党入門〜ゆとりとくつろぎの世界』(深代徹郎、春山徹郎)という、W徹郎によるバカ本をご紹介しましょう。
タイトル通り、パイプの魅力と知識を紹介する指南書で、終始一貫しているのが‘現代人よ、自由たれ’というメッセージ。冒頭の「パイプ党入門へのすすめ」という章では、‘パイプ党には、流行っているから俺もやるという付和雷同型の人間はいない’と、いきなり敷居を上げる自由っぷりを発揮。パイプに親しんでほしいのか、ほしくないのか、どっちなのか? というか、それ以外の理由ではじめる人っているの?  そんな、つまらない常識にとらわれた僕の疑問などお構いなしで話は進みます。
「パイプスモーキングのなかれ四カ条」という章では、「恥ずかしがることなかれ」「年齢を気にすることなかれ」「人の意見を聞くことなかれ」「値段にこだわることなかれ、」という、今だったら怒られそうな主張をブチまけます。(ちなみにこの本が出たのは1976年です)
さらに、おすすめのシチュエーションとして、「歩きながら」「スポーツしながら」「ドライブしながら」などを、人に迷惑かけない程度にやれば的なユルい感じで提案してくれます。その割に、ドライブ中に吸っていて急に振り向くと、窓にコツンとぶつけるから注意しろと、細かい注意をしたりするところがカワイイ。やっぱり、何か人に勧める場合は、ユルさと可愛げが重要ですね。

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2014年05月27日

引きずる小説、『金色機械』

140527.jpg「自分らしい、私でありたい」、「自分にウソはつきたくないから、思ったことはそのままいう」。
心に響くいいフレーズですね。でも、あんたが言うと、何か違和感を感じないワケでもないんですけど…。いや、やっぱりおかしいぞ。これって、単にワガママで横暴なだけとちがうんかい!
このように、最初は“いい感じ”に思えても、落ち着いて考えると「何じゃそりゃ?!」ということってよくありますよね。
恒川光太郎の目下最新作『金色機械』を読んだときも、同じような感覚になりました。
お話の舞台は江戸時代。内容は、山賊や遊郭にたずさわる人たちと、異形の存在「金色様」にまつわる不思議なサーガです。
おもしろい。ストーリーはさまざまなエピソードが交錯するかたちでハラハラするし、登場人物もキャラが立っている。恒川氏ならではのミニマムながら清涼感があり、ノスタルジックな文体もすばらしい。
でも、圧倒的な違和感が頭にこびりついて離れないんです。まず、タイトル。金色機械……。金色と機械……。う〜ん、見ればみるほど立ち上がってくるミスマッチ感。しかも「こんじき」ではなく、「きんいろ」。で、話のキーとなる「金色様(きんいろさま)」は、名前の通り全身ゴールドでメタリック仕様。そして、時おりピコピコと音を立て、緑の目を光らす……。
これって、C3POやないんですか!!
僕がおちょくり半分で言っているのではなくて、本当に誰が読んでもC3POそのものなんです。
そんなワケで、どんな場面も「ルーク様、ルーク様」と叫びながらテケテケ歩くC3POが頭に浮かんでしまい、物語の世界に入っていけそうで入れない、何とも気色の悪い感じになってしまいます。(念のために申し上げると、恒川光太郎という人はジャンル的にはダークファンタジーの作家です)
このトンマな設定がわざとであることは間違いないのですが、ねらいが分からない。松本人志が追い求める“哀しいけどおもろい”世界観を目指しているのか。
もしかしたら、この違和感はステップアップする前兆なのかもしれません。
妙に引きずります。

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2014年03月20日

摩訶不思議な世界

140319.jpg先日、小学2年の子どもに「好きなことばってなに?」と聞かれました。立派な大人なら座右の銘というものがあるのかもしれませんが、ゾンビ映画を観て真剣にビビっている僕にそんなものがあるはずがない。
「何にもない」と言うとがっかりさせるので、まじめに考えてみたところ、びっくりするくらい何にも浮かんできません。F1ターボエンジンのように頭をフル回転させたところ、浮かんできたのは「摩訶不思議」という言葉。なぜ、この言葉が浮かんできたのかは分かりませんが、他に候補がないのだから仕方ありません。
「摩訶不思議!」自信ありげにそう叫んだところ、返ってきたのは「イマイチ」という言葉。
何やねん、イマイチて。大喜利やないんやから、良いとか悪いとかないから。
イラッときて、そういう自分はどんな言葉が好きなのか聞くと、「きずな」という答えが返ってきました。…何か、立派ですやん。 
ただ、僕の「摩訶不思議」 もアリなんじゃないでしょうか。どんなことにも根拠や結果、責任が求められる窮屈な今の世の中にこそ、曖昧さやワケが分からないことって大切なんじゃないかと、後づけながら思うワケです。

ということで、『もうひとつの街』(ミハル・アイヴァス)という小説を紹介します。
もう、タイトルと表紙だけで、好きな人はグッとくると思います。イメージの通り、めくるめく摩訶不思議な世界が次つぎに展開するお話。雪降りしきるプラハの古本屋で、すみれ色の本を手に取った“私”は、見たことのない文字に誘われて、突然サメが出てきたり、ジャングル化した図書館やチベットまでつづく路面電車があらわれる街をさまようことに。
もちろん、なぜそんな異界に迷い込んだのか、不思議な出来事にどういう意味があるのかなどの説明はありません。だから読んでいておもしろいし、いろいろなイメージがふくらんで気持ちいい。チェコ〜プラハという、日本人にとってはミステリアスな舞台もナイス。
テーマパークに、この小説のような世界をさまよう大人のアミューズメントとあればいいのに。

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2014年01月21日

サーフィンと私

140121.jpg先日、某テレビ番組で元フィギュアスケート女王、ミキティさんの着物姿を見て、僕がサーフィンをする姿に負けないくらいの違和感を感じました。
いや、ミキティさんは、僕が今どきの「くずして着る」着こなし術を理解していないだけで似合っていたんだと思います。ただ、僕とサーフィンに関しては、「真逆」という意味を表すのにこれ以上のものはないと、自分でも思うくらいです。
何がそんなにミスマッチ感をかもし出しているのかは分かりませんが、若い頃キャンプに行った時、初めて会った女子に‘いい意味で陽の光が似合わないよね’と言われたことがあります。ちょっと意味が分からないところもあるのですが、スムーズに火をおこすことができずにマゴマゴしている時の発言だったので、おそらく‘アウトドアは苦手だけど、それを補うインテリジェンスを感じるわ’と、フォローしてくれたんでしょう。だから僕もすぐに‘いい意味でHIROMIXに似てるよね’と、褒め返したんだと思います。

そんなワケで今まで一度もサーフィンをやったことがなく、やりたいと思ったことすらないにも関わらず、『SURF IS WHERE YOU FIND IT』(ジェリー・ロペス)という本を購入。著者であるジェリー・ロペスは、70年代に活躍した神的サーファー。ド素人中のド素人である僕でも、すごい人であることくらいは知っているスーパースターです。
少年時代から今に至るまでのサーフィン人生を自ら綴った内容で、サーフィンに興味もなく、何か本棚にあるとカッコいいという理由で買った僕に800ページを越すこの本を読み切ることができるのか不安だったのですが、読みだすとこれがメチャメチャおもしろくて、一気に読み切ってしまいました。もちろんサーフィンのことも書いてあるのですが、それよりもサーフィンで体験したさまざまな出来事や仲間のことに重点がおかれているのが本書の特徴。また、サーフィンを通して築いた人生観も語られていますが、説教くさくなく、無理にええ話にもしていないところが、この人の人柄を表していて良い。
それだけに、最後の「生きるということは素晴らしい」という彼の言葉が、ズンと胸に響きます。

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2013年10月27日

リンチが再び輝きだす

131027.jpgまじめ仕事からおバカなキャンペーンソングの作詞まで頭がパンクするほどの忙しさに加え、プチ鬱になる資格充分なトラブルに巻き込まれ、ついでに愛車のプジョーのマウンテンバイクが修理から返ってきた次の日にブッ壊されるという惨劇に遭いながらも、そこそこゴキゲンに暮らしています。
ディープな経験をすると、誰もケチをつけられない正解ばかりが大手を振って闊歩する世の風潮をひっくり返す価値観が出てきてもいいんじゃないかと思います。

そんな僕の中で再び鈍く輝きだしているのがデヴィッド・リンチです。僕にとってリンチとは「反転の人」。感動作になるはずだった『エレファント・マン』やSF超大作になるはずだった『砂の惑星』を変態作品にひっくり返し、『ブルーベルベット』と『ワイルド・アット・ハート』ではオールディーズやプレスリーの曲を暗黒ソングに変換してしまいました。それは単に曲のイメージを変えるのではなく、すべてのものは見る角度によって姿を変えることを知らしめた革命といってもいいでしょう。リンチのこの姿勢は、『ブルーベルベット』のオープニングの、きれいな庭の下に蠢くアリの群れのシーンで宣言されています。
そんなリンチに対する世の中のイメージはエキセントリックな変わり者といったところではないでしょうか。でも、『デイビッド・リンチ』(クリス・ロドリー)という本を読むと、彼が極めて常識人だということが分かります。リンチが自分の作品について話す構成で、実にまじめに語っていて、この人の魅力が伝わってきます。
といっても作品の意味については一切語っておらず、そこがまたいい。日本のアーティストや作家さんは、何か意味の分からない話をウネウネと話しつづけ、「そのエピソードを反映した作品がこれですか?!」ということがよくあるので、リンチの潔さを見習ってほしいものです。
作品の意味は語らなくても、製作過程や感想なんかを丁寧に話してくれていて好感が持てます。こういう姿勢を目の当たりにすると、「ミュージックステーション」に出演したアーティストがタモさんの目も見ず、マイクもしっかり持たず、「オレ、こんな歌番組興味ないから」とばかりに、だらけた態度で話すことがいかにカッコ悪いかが分かります。
……、完全に話がズレてきてますね…。
普段の常識人としてのリンチが映画や絵をつくる時には人格が反転して、あの異様な世界をつくっているとますます興味がわいてきます。この本の表紙はそうしたリンチの特性をあらわしていると思います。

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2013年08月31日

生々しいレトロ

130828.jpgこの前ご紹介した『ルミ子&賢也の愛の料理』を発掘したのに味をしめて、我が家の本棚その1の一角を占めるバカ本コーナーを漁っていたら、1967年に使われていたナショナルのセールスマン用カタログが出てきました。これは確か、古道具屋さんでゲットしたもの。
もちろん今では見かけない古い商品ばかりで、“こんなん 子どもの頃、家にあったなぁ”と、思わず涙が出そうになったりするのですが、若い人にとっては新鮮なのかもしれません。実際、食器棚つき冷蔵庫や脚に雑誌ラックがついたテレビなど、便利なんだか余計なんだか分からない機能がついた斬新なものがチラホラあります。
宣伝文句も飛ばしていて、イチ押しのテレビには「人工頭脳テレビ 黄金(回路)シリーズ」なんてフレーズが書いてある。でも、人工頭脳や黄金回路が何なのかは、まったく説明されていません。
デザインに関しては、冷やかし抜きでめちゃカッコいいです。クーラーや冷蔵庫は工業チックな骨太感がイカす。サイドボードみたいな木の箱にターンテーブルやスピーカーが収まってるステレオは重厚感のあるDJブースのよう。うまくアレンジすれば売れるんじゃないでしょうか。ネーミングも「憩」「雅」「宴」「集」など、旅館チックでグッドです。

あと、バッグタイプの本体のフタを開けると、掃除機についているような太いホースと袋につながっている女性用のヘアーセット(何のこっちゃですよね)が載っているのですが、これってどうやって使うんでしたっけ? 確かオカンも持っていた気がするのですが…。

今、使っている電化製品もいずれはこんな感じになるんでしょうね。

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2013年08月12日

愛のカタチ

130812.JPG小柳ルミ子さん&大澄賢也さん、遅ればせながらお二人に脱帽です!

自宅の本棚をDIGっていたら、バカ本コーナーから『ルミ子&賢也の愛の料理』が出現。随分前に何かのネタになると思い、わざわざネットで購入し、そのまま肥やしになっていました。内容は、「セイシュンの食卓」というテレビ番組での同名コーナーを編集したもの。

表紙からして尋常ではないことは十分に伝わってきますが、中身はさらにすごいことになっています。
表紙をめくると料理本なのにどういうワケか、ルミ子がセクシーランジェリー姿で股を広げて賢也が顔を埋めていたり、上半身裸の賢也の腹に食パンを乗せて、ルミ子がパンではなく賢也を舐めているのです。念のために言っておきますが、変態夫婦の露出プレイではなく、「ピーチチーズのキムチパン」を作る過程です。
そして解説として、“「ピーチチーズのキムチパン」のテーマは、ずばり「セクシー!」。男と女の情念をダンスと料理で表現する…。ルールなんてない、天井知らずに盛り上がれ! 例えばトーストにバターを塗るのにも、彼の体に塗ってしまう。ぬりぬり、ぺろぺろすれば二人の関係はよくなりエロティック。さらにパフォーマンス度を増したい二人は、開脚リフトにもチャレンジして。エロティックは料理の基本ですね。”というメッセージが記されています。

常人は、テーマの設定から置いてけぼりを喰らい、すぐさま“男と女の情念を表現する”という驚きのフレーズをブチ込まれます。
そうなんだ、目的は料理ではなく、ルミ子と賢也の情念を表現することなんだ。ということは、やっぱり変態夫婦の露出プレイじゃないですか!
その後の文章に関しては、何を仰っているのか皆目分かりません。
“トーストにバターを塗るのにも、彼の体に塗ってしまう”って、結局トーストには何も塗ってないじゃないの!
でも、怒ってはいけません。“ぬりぬり、ぺろぺろすれば二人の関係はよくなる”のですから。普通は、こういうことをすると関係をこじらせるんじゃないかと考えてしまいますが、そうではないのです。開脚リフトをするとさらに良いということなので、これもするしかありません。

僕としては、『心を整える。』を読むよりも、『愛の料理』を読んで心を乱すことをオススメしたい。ただ、カロリーが高いものを食べ続けると健康を損なう危険があるように、愛の料理をやり続けると愛が壊れることを本人達が身を以て示しているので、注意が必要です。
ちなみにYuoTubeで、傑作と誉れ高い「ハクジオ汁」を見ることができますので是非。

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2013年05月07日

時間は繰り返す

130508.jpgハングマンのメンバー、タミー(夏樹陽子)とマリア(早乙女愛)にとっ捕まり、お仕置きされると覚悟したら、“今夜は帰さないわよ”と言われ、別ジャンルのお仕置きを受けるような、何度でも体験したい時間。
同じくハングマンのメンバー、ベニー(あべ静江)にとっ捕まり、壁に投げつけられるお仕置きを受けると覚悟したら、“今夜は帰さないわよ”と言われるような、1回きりでも御免こうむりたい時間。
同じ時間でも、内容はさまざま。
このような夢のような時間または悪夢のような時間が、“もし、繰り返されたら”と、想像したことは誰でも一度はあるでしょう。
熟女好き以外の人には分かりにくいかもしれないので他の例えをすると、日曜日の晩に「サザエさん」を観ていて、“あぁ、明日は学校かぁ…”とブルーになっているうちにウトウトしてしまい、気がつくと、まだ日曜の朝だったということが繰り返される感じといえばいいでしょうか。

こんな本を待っていた!
そう叫びたくなるのが『時間ループ物語論』(浅羽通明)。
タイトルの通り、時間が繰り返される設定を用いたフィクションについて語られた本です。
先ほど言ったように、朝起きたらたらどういうワケか、過ぎたはずの昨日がまたはじまっている…とか、事故や事件に巻き込まれて“死んでもーたぁ〜!”と思った瞬間に目が覚めて、周りを見ると死ぬ前の時間に戻っているという話、ちょくちょくありますよね。これまでこういう類いの話を見ると“ループもの”と、ぼんやり認識はしていたものの、深く考えたことかなかったので琴線にふれました。

時間ループもののバイブルとされる『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』はもちろんのこと、古今東西の小説や映画を取り上げて、タイプ分けや構造の分析をする手さばきは鮮やかの一言。ピックアップされている作品が幅広く、恒川光太郎の『秋の牢獄』、『魔法少女まどか☆マギカ』、夏目漱石の『夢十夜』などが一緒に登場する展開はなかなか新鮮です。
しかし、途中からどこか物足りなさを感じてきます。それは、この本がもともとは大学の講義で、分かりやすくしているからなのかもしれませんが、タイプ分けと表面的な構造分析にウエイトが置かれていて、背景についての考察が手薄になってしましたからではないでしょうか。おいしいハンバーグの焼き方が知りたいのに、牛の産地についてのウンチクを延々きかされている感じがするんです。
ハウス、テクノのループや、ヒップホップのスクラッチと関連づけるような飛躍があっても良かったと思います。
また、著者はオタクが大層嫌いなようで、彼らの体験を伴わない薄っぺらな物言いに対する批判をループさせているのですが、“自分も似てね?”と、イラッときたこともつけ加えておきましよう。
この本でループものの輪郭は大体つかめたので、今度は考察を掘り下げた第2弾を出していただきたいものです。
あと、『ダーク・シティ』や『トゥルーマン・ショー』など、ホントの世界は別にあるといった「箱庭世界系」についても書いていただけるとうれしい。

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2013年02月23日

自意識過剰

130224.jpg「自分らしい」とか「自分さがし」といったフレーズが普通の会話で普通に出てきたりするのを見聞きすると、自分(と思い込んでいるもの)の虚構化・物語化がますます強まっているなと感じます。
これは、もう一人の自分が一歩引いた視点から自分を見る思考で、近代以降の人間が背負った十字架ともいうべき自意識ですが、つい最近もネットを漂流していたら普通の日々を綴った日記に「生活のクオリティ」という言葉が普通に使われていたりして、もはやレイヤーを設けた視点はデフォルトなんだと唸ってしまいました。(書いた人の意図とは違いますが、「生活のクオリティ」という言葉の響き、ちょっとコワいです)
とかいって、僕にもこの文を書いている自分に「そうやってずっと斜に構えてろ」と言っている自分がいて、さらにその自分に「それも言いワケのひとつやね」と言っていたり「いやいや、そんなオレが愛おしい!」とウットリする自分がいたりと、鏡地獄は延々つづくワケです。
小沢健二の「ローラースケート・パーク」でも“ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ”という歌詞がありましたね。
むー、それはその通りなんですけど、この辺のバランスってむずかしい。

話は変わりますが、倖田來未がカバーした「ラブリー」が何かと言われているのでどんな惨事が起こっているのかと期待してPV見たら、それほどでもなかったのでガッカリ…。

こうした過剰な自意識を分かりやすく、そして楽しく描いているのが『ムーたち』(榎本俊)というマンガ。普段頭の中には浮かぶけれど無意識にスルーしていたり、アホ過ぎて隅に押しやって忘れてしまうようなことがあぶり出されていて気持ちいい。僕の場合は人が捨て去るようなことを拾い上げる仕事をしているのですごくタメになります。
ちなみに主人公のムー夫(カワイイ男の子)は、さっき書いた視点のレイヤーをセカンド自分、サード自分、フォース自分と4層持つ、かなりの強者です。

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2013年01月16日

事故アピールをしないために

130116.jpg思春期の病のひとつに、度が過ぎた自己アピールがあります。自分の存在を認めてほしいというオレ汁が放射され、内容の大半は自分がどれだけ人と違う存在であるかというファンタジーだったりします。しかしそれは人が成長する上で必要な「恥ずかし体験」。歳を重ね、いろいろなことを経験する中で「恥ずかし体験」をもとにオレ汁の放射方法は調整され、さらに歳を重ねると(仕事はまぁ別にして)人と違うかどうかは自分の人生を生きる上でさほど意味がないことを知ります。
ところが最近はいい歳になってもまだ過剰な自己アピールをする人が多いように感じます。二十歳そこらなら可愛げがありますが、30を過ぎて酔ってもいないのにそれをされると「熱い」とかではなく単純にうっとうしい。僕はいい大人の一方的なアピールを「事故アピール」と呼んでいます。

以前、フリーミュージックのパイオニアであるジョン・ゾーンが、ある年齢までは奇抜なアイデアや高度なテクニックをアピールすることにも意味はあるけれど、それ以降はそれらで得たことを肥にして何かを表現することが大切と言っているのを見たことがあります。散々キテレツなことをやってきた人だけに説得力があります。
そんな彼の言葉をジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』を読んで思い出しました。初期の代表作である『フローベルの鸚鵡』や『10 1/2章で書かれた世界の歴史』は斬新な切り口や構成で、小説の枠を広げることにチャレンジしているようにも思える作品でしたが、60代になって書かれた本作は派手な仕掛けはないものの、今まで培ったものが確実に息づいているコクのある作品に仕上がっています。
静かに引退生活を送る平凡な男が学生時代の親友の日記があることを知らされたことがきっかけで過去を振り返り、だんだん自分の記憶にある過去が揺らぎはじめるというストーリーで、「自分」という存在がいかに不確かであるかが語られています。
このようにありがちな内容をしたことにも彼の自信がうかがえる。たぶん彼はアクセサリー的な斬新さを見せつけることより、自分の内にあるものを小説で表現することに関心が移っていったのでしよう。そういう意味で『終わりの感覚』は、作家が「事故アピール」を回避した好例ともいえるでしょう。
ジュリアン・バーンズといい、スティーヴン・ミルハウザーといい、いい意味で円熟してますね。これからが楽しみです。

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2012年08月22日

ご近所愛

120822.jpgお盆はほとんど休まずMacのキーボードを叩いておりました。しかも今年は町内会の組長で、地蔵盆や日帰りバスツアーの準備なんかもあって、なかなかヘビーでした。7月のうちに家族旅行に行っておいてよかった。
「ご町内」という関係は、年齢・職業・趣味などはてんでバラバラ(というか知りもしない)、共通点といえば近くに住んでいるだけなんだけれど、楽しく暮らすためにはおざなりにはできない、「微妙」を絵に描いたようなつながり。特にいま住んでいるところは京都の下町なので、その辺のところはいろいろあるワケです。
世帯主として京都で暮らして感じるのは、「女系のまち」だということ。表向きは「家」という男軸で受け継がれていますが、そんなものは飾りです。男は産卵のときだけ重宝がられて、骨格まで変えて必死に川を上るシャケのオスのようなもの。長くなるので書きませんが、京都は男の血ではなく、女のスピリットが脈々を受け継がれているパワースポットといっても過言ではありません。
こんなふうに書くと怖そうなところに思えるかもしれませんが、吾輩が住んでいるエリアはほんわかしていて住みやすく、最近は新しいお店もちょこちょこできていて、いい感じです。

とまぁ、自分の中でご近所愛がブームになっていることもあって、「まち」を切り口に本や映画を鑑賞してみることに。ターゲットはブルックリン。昔はおっかないイメージがありましたが、いろいろなお店ができたり、クリエイターが住みついたりして、随分様変わりしている模様。そんなブルックリンの“いま”を紹介してくれるのが『ブルックリン・ネイバーフッド NYローカル・ガイド』(赤木真弓、藤田康平)。オサレな新しい店と頑固オヤジがいる古い店がゴチャ混ぜになっていて、どこもDIY感がある佇まいで居心地がよさそう。写真を見るだけでもワクワクしてきます。

続いて読んだのがポール・オースターの新作『ブルックリン・フォリーズ』。この人はブルックリン在住で、“ブルックリンLOVE”なことでも有名。ホームタウンが舞台になっているせいか作品の雰囲気はいつもより軽く、話の展開もアクティブ。そして、相変わらず上手い。「私は静かに死ねる場所を探していた。」という最初のセンテンスで、グイッと物語の世界に引き込んでしまうところが凄い。(柴田元幸さんの訳が絶品なのはいうまでもありません)

オースターは映画でもブルックリンを舞台にした『スモーク』と『ブルー・イン・ザ・フェイス』という、嫌みのないハートウォーミングな作品を手がけていますが、今回はスルーして、もう一人、ブルックリンを舞台にした作品を多く撮っているスパク・リーの作品を観直す。それぞれ作風や時代が違っていて、いろいろなまちの表情を見ることができてとても楽しめました。

吾輩のご近所とブルックリンに共通しているのは、いろんな要素が入り交じっていて、まとまりがないところ。隅から隅までオサレにデザインされたお店が落ち着かないように、まちもランダムな方が心地よくて、勢いがありますね。

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2012年07月28日

『ポパイ』リニューアル

120728.png「人を見た目で判断してはいけません」
小学校の道徳の時間、こんなことを教わった記憶があります。
当時は“センセ、ええこと言わはるわ”と感心したものですが、社会に出て歳を重ねるごとに、“一概には言えないかも…”“いやいや、大抵見た目と中身って一致してないか?”と思えてくる次第です。
いつも寝グセをつけたまま出勤する人は、ほぼ間違いなく「寝グセなんか気にしない人」か、「形状記憶合金のように直しても直しても寝グセが復活する人」のどちらかでしょうし、いつも同じ服ばかり着てくる人は「服なんて気にしない人」か、「スティーブ・ジョブズのファン」のどちらかです。
何だかんでいっても外見は多くのことを表しているのです。
なので、服装に気をつかうシチュエーションがあるときは、吾輩も一応前もってどんな服を着ていくか脳内コーデをしておくのですが、そういうときに限って、当日着ていくはずの服が見つからないんですよね。“アレッ、アレッ?!”と慌てていると、遠くから“天気が悪かったから洗濯してへんで”と、つれ合いにいわれるのがパターンになってます。
閑話休題。見た目は、かなり大切だということがいいたいわけです。

イカした見た目になるための指南書である老舗雑誌『ポパイ』が、ちょっと前にリニューアルされました。かなりイマドキなテイストになって、昔からのファンの間では意見が分かれているみたいですが、吾輩は好きです。
成功のカギは、「シティボーイ」という創刊当時のキーワードを再び設定したこと。一見古くさい、先読みする人にとってはわざとらしい言葉ですが、「今の雰囲気」をよく表しているんじゃないでしょうか。「今の雰囲気」とは何かというと、ジャンルにこだわらず好きなもの・ことを組み合わせて、自分の世界観をつくること。
だから、内容はファッションだけでなく、雑貨、クルマ、遊び、おもちゃなど、男がグッとくるものがゴッタ煮状態で紹介されています。
トイレに入っている時や寝る前なんかにペラペラとページをめくっていると、ムダに楽しくなってきます。こんな風に感じる雑誌って、最近あんまり出会わない。
今のところリニューアルされてから3号出ているのですが、どれもいい感じです。(特に第1弾の「シティボーイのABC」かグッド)
“このテンションで、いつまで続けられるのかな?と思ったりもしますが、編集部さんにはぜひともがんばってほしい。

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2012年07月04日

勝手にリバイバル〜ブック編

120703.JPG毎度 私事で恐縮ですが、ここ何年かの間で音楽、映画、小説などの新作にふれる割合がめっきり減ってきています。新しいものを追うことだけが新しさじゃないだろう!という、尖った想いは微塵もなく、単に追いきれないというか、頭に入ってこないんです。まぁ、平たくいうと「老い」です。
もともと物おぼえが良い方ではないのですが(とにかく数字がダメで、自宅や仕事場の電話番号もおぼえられません)、21世紀に入ってからは壊滅的。バンド名や俳優の名前なんて“ほらほら、アレに出ていた、アノ人”といった状態で、毎年1〜2人デビューするF1ドライバーをおぼえるのが精一杯です。と言いつつ去年トロ・ロッソにいたハイメ・アルグエルスアリは、とうとう最後までおぼえられませんでした…。
そんな感じなので近頃は、長年ラックの奥にしまい込んでいたものを引っ張り出してきて、スルメのようにしがみ直しています。

その筆頭が、雑誌『Cut』。実家から創刊当初のバックナンバーを持ち帰り読み直してみると、キース・リチャーズやデビッド・ボウイ、マイク・タイソン、ビートニク関連の人たちなど、バラエティに富んだロングインタビューが満載で、かなり読み応えがある。特にタイソンのインタビューは、言ってることのほとんどが真っ当で、時々チラつく“?”な発言が、この人の複雑なキャラクターを表していておもしろいです。
それに、エンターテイメントやカルチャーの世界、そしてメディアにも、今の“身の丈文化”とはちがう、派手派手しさや胡散くささが残っていてすごく楽しい。時代の空気感を伝える雑誌って、後から読む方がおもしろかったりしますね。

もうひとつの「勝手にリバイバル」は、村上春樹のエッセイ。この人のエッセイは何年かおきに読みたくなるのですが、何度読んでもおもしろい。題材との距離感や、それを読者に伝える距離のとり方が絶妙で、スラスラ読めるけれど後に残る軽妙洒脱な名文です。こういう文章を30代半ばで書いていたのだから、やっぱりスゴいですね。

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2012年05月23日

ベタは語る

120523.jpgプラットホームで電車を待つオジさんがすることの定番といえば、ゴルフスイング。今ではお目にかかることが少なくなりましたが、この前、カラダをムズムズさせている“いかにも”なオジさんを発見。久々にいいものを拝めると期待していたら、そのオジさんはゴルフではなくピッチャーの構えをするではありませんか。そして大きくふりかぶった腕を振り下ろすと思いきや、阪急ブレーブスの伝説のエース、山田久志顔負けのアンダースローを披露してくれたのです。
「どんだけ野球好きやねん!」という気持ちはわき起るものの、このオジさんの行為が意味することはゴルフスイングと同じ。それは、ストレスがたまっている、あるいは羞恥心のパッキンがボロボロになっているということです。

このように多くの人が共有するイメージを利用して、特定の状態を表す手法は「ベタ」「ステレオタイプ」などと呼ばれ、映画やドラマなどで広く活用されています。
このベタを、食べ物だけに絞って書かれたエッセイ集が『コロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』(福田里香)。福田さんはお菓子研究家ということですが、食べ物だけでなく映画にも詳しいご様子。斜から観る感じや文体が男性的で、「もしや男?」と思って調べたら、女性でした。居酒屋で話したら、かなりおもしろい方のような気がします。
エッセイでは、さまざまなベタなシチュエーションを取り上げ、それらが暗に何を表現しているのかが綴られています。特に興味深かったのが、失恋の後のヤケ食いに関する話と、遅刻しそうな女の子が食パンをくわえたまま家を出てステキな男子と衝突してしまう話。福田さんによると、女の人のヤケ食いは営みの代替行為であり、食パンは処女を表すアイコンなのだそう。言われてみたら、まったくその通り。
これだけだと何だかフロイトみたいな感じに思えてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。楽しいフード理論がたくさん収録されていますので、ぜひチェックしてみてください。
もしかしたら、本屋さんでステキな人と同時にこの本を手に取ろうとして、恋が芽生えるかもしれませんよ。

ちなみにプラットホームで一人、エア山田をしていたオジさんは投球フォームを繰り返し、時おり首をひねったりしていました。どうやら脳内で、9回裏、2アウト満塁というシチュエーションが出来上がっていたようです。

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2012年05月08日

アメリカ映画をふり返る

120528.jpg中学の修学旅行でおこなわれたキャンプファイヤーでサングラス。
それが後々これほど恥ずかしいことになるとは思ってもみませんでした。
確かに当時も炎しか明かりがない真っ暗闇でサングラスをかけるのは、ちょっと不自然かなと思わないわけではありませんでした。マーシー仕様のサングラスでキメている割にはフォークダンスで好きな女の子と手をつないで必要以上に緊張し、童貞であることがバレバレになってしまうこともある程度予想できました。
しかし、脳内ではそんなことを吹き飛ばすくらいカッコいい自分の姿がクッキリと映し出されていたのです。
結果は、それから約30年経つ今でも、当時の写真を見るとワキ汗をかかなくてはいけないことになりました。
このように世の中には、後から距離をおいて捉えると、それまで見えなかったことが見えてくることがままあります。そのことを2年前から年に1冊ずつ出版された『80年代、90年代、ゼロ年代 アメリカ映画100』を読んで改めて感じました。タイトル通り10年単位で、今注目に値する作品を100作ずつ紹介する内容なんですが、この本がおもしろいのは作品の紹介ではなく、間にはさみ込まれているコラム。執筆陣は、町山智浩、柳下毅一郎、黒沢清、滝本誠などなど、かなりの充実ぶり。中でも町山智浩氏によるアメリカ映画のBサイド・ストーリー的なコラムは本当に勉強になりました。

テンションが上がり、頼まれもしないのに夜中にひとり黙々と30年分〜300作の映画を監督別に振り分けてみたところ、いちばん多く取り上げられていたのが、クリント・イーストウッドの10作。そのあとにマーティン・スコセッシ、ブライアン・デ・バルマ、スティーブン・スピルバーグの8作がつづく結果に。スコセッシ、デ・バルマ、スピルバーグはどの年代からもコンスタントに取り上げられているのに対して、イーストウッドはゼロ年代に入ってから6作もの作品が選ばれています。70歳を超えてからこれだけクオリティの高い作品を多くつくりつづけていることは圧巻のひと言。
他におもしろかったのは、300作の中では80年代にわずか2本しか選ばれていないのに、次点の150作を加えると、ジョン・カーペンターが一気にトップ集団に飛び込んでくること。これは、彼がB級作品にこだわりつづけていることをよく表しています。
また、80年代は1作だけ選ばれて、それっきり姿を消した、いわゆる一発屋が多いことが浮き彫りになってきました。これって、吾輩がキャンプファイヤーでサングラスをかけたような80年代的な恥ずかしさがを取り入れてしまったことも大きな原因になっていると思われ、これらの監督が「あのときはみんな、オシャレやいうてましたやん!」と嘆く姿が目に浮かびます。
その反動なのか80代後半から90年代前半は、90年代・ゼロ年代に活躍する逸材が多く現れることになりました。
こんな感じでこのシリーズは、過去30年の映画の流れを2012年から見て自分なりに編むことができてすごく楽しい。このシリーズと『ロスト・イン・アメリカ』を読めば、アメリカ映画がさらにおもしろくなること間違いナシ! ただし、自分のはずかしい過去がよみがえってくるかもしれないので気をつけてください。

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2012年03月20日

ソール・バスは絵本も凄かった

020320.jpgこのところ休む間もなく、内容もスタイルもバラバラな仕事に携わらせていただき、それは本当に嬉しいことなんですが、心身ともガチガチに固まっている状態です。そんな中、仕事場でなか卯の和風牛丼を食べながらアマゾンを徘徊していると、映画のタイトルバックに革命を起こした天才デザイナー、ソール・バスがイラストを担当した絵本『Henri's Walk to Paris』を発見!
贅沢をして牛丼と一緒に買ったなめこみそ汁をすすりながらレビューを読むと、この作品は世界中の絵本ファンが手に入れるため必死のパッチになっている名作で、今回50年ぶりに復刻されたとのこと。今までアンリの‘ア’の字も知りませんでしたが、そんなことを言われると滅法欲しくなるのが人情というもの。
‘心に潤いを与え、いいアイデアが浮かぶようにするためにも絶対に必要!’と自分に言い聞かせ、前から保留にしていたDVD『ソール・バスの世界』と一緒に購入。和風牛丼となめこみそ汁をセットで買うは、絵本とDVDをセットで買うは、もう、とんでもないことをしでかした気分に。(後ろめたいので届け先は自宅ではなく、仕事場にしました)

そんな『Henri's Walk to Paris』は、パリが大好きなアンリちゃんがパリまで歩く冒険を決行し、途中の森で眠る際に迷わないようパリの方向を示した鉛筆を置いたところ、巣をつくっていた小鳥が鉛筆を見つけてちょこっと動かし…というお話。
ストーリーだけでも淀んだオヤジの心をキュンとさせる魅力を持っていますが、そこにバスのイラストが加わり、この作品を別格にしています。少ない色数で見る者のイマジネーションを刺激する色彩感覚、登場人物の足元しか描かないアイデアや遠近法を活用した映画的な構図など、どれもがすばらし過ぎます!
これは、デザインはもちろん、写真をやっている人も買いでしょう。

一緒に購入したDVDにバスのインタビューが収録されているのですが、彼が語る言葉のシンプルかつ的確なこと。本物の才能を持っている人って、やっぱり核心をビシッと捉えているですね。とか言いつつ、実はこの人、本職の傍ら『フェーズ4・戦慄!昆虫パニック』という珍作を監督しています。ますます奥深い人です。

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2011年12月08日

絶望を楽しむ

111208.jpg歴史に名を残す偉人たち、自分の目指す道で成功する人たちは、「絶対にあきらめない」というネバーギブアップ精神を持っていると同時に、常識という物差しではかれない執着心の持ち主でもあります。普通の人間はそんな境地に行き着く前にあきらめたり逃げたり知らんぷりをして、安住の地へ引き返します。
メディアや交通が発展し、すぐれたものに出会う機会が多い今の時代、刺激を受けることが増えた反面、“もう出つくした感”によるトンズラ傾向も強くなっているんじゃないでしょうか。
話はズレますが、吾輩はFacebookでいろんな人がアップする出来事を鼻をほじりながら眺めていると、みんなとんでもなく楽しくて充実した毎日を送ってるような気がして言いしれぬ不安を感じてしまう有様です。自分も負けずに‘今日食べた○○のチーズケーキ、超ウマい!しあわせ〜’とアップしようかなと思ったりもするのですが、‘それがどうした’という脳内ツッコミが入ってスゴスゴ引き下げてしまいます。
何が言いたいのかというと、圧倒的なものに出会うと大きな感動と一緒に絶望も味わうということです。
『電子音楽 in JAPAN』(田中雄二)という本を読んだ後も甘くて苦い思いがカラダ中をかけめぐりました。この本は日本の電子音楽の歴史、いや世界の電子音楽の歴史について語り尽くした圧倒的な名著です。べつに吾輩には電子音楽の分野で何かを成し遂げてやろうといった野望はこれっぽっちもありませんが、どの世界にもこれくらい突き抜けた人がいるんだなぁと思うと、何もヤル気がしなくなってしまうのです。
この本の著者はYMOのメンバー3人それぞれにインタビューを行った『イエロー・マジック・オーケストラ』という本も手掛けているのですが、こっちもカルピスの原液よりも濃い内容になっています。実際このインタビュー本を読んでから、他のインタビューを読んでもちっともおもしろく感じなくなってしまいました。よっぽど新しい切り口がない限り、このインタビューを超えることはできないでしよう。
そんな絶望を感じたいMな人はぜひ読んでください。

田中氏にはぜひとも90年代以降の電子音楽や、パフュームなど歌謡曲・アイドル界における電子音楽の影響について語ってほしいものです。

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2011年10月02日

ナンバーワンorオンリーワン

20111002.jpg「ナンバーワンではなくオンリーワン」。よく見聞きするフレーズで、なるほどと思わないこともありませんが、ニヤけた顔で自分からそう言われると居心地の悪さを感じます。
オンリーワンになるためには、まわりと比較して他にはない存在にならなければならないワケですから、ある意味ナンバーワンよりも険しいイバラの道が待ち受けていると思うのですが。少なくとも「オンリーワン=自分にとって楽な場所」ではないはず。
このことを教えてくれるのがプロスポーツの世界。‘オレは打率2割4分5厘、ホームラン2本、でもオンリーワンの選手なのさ’と言ったところで相手にされないどころか、襟首をつかまれることになるのは間違いありません。‘いやいや、角界のロボコップ、高見盛がいるじゃないか’という声が聞こえてきそうですが、最初からあのポジションを狙うって人はまずいないでしょう。「ナンバーワンこそオンリーワン」、それがプロスポーツ選手の在り方なのです。
この原理をもっとも過激に、そしてもっともドラマチックに体現したのがアイルトン・セナとアラン・プロスト。80年代半ば、F1で頂点を極めていたプロストに新鋭セナが挑んだ、俗にいうセナプロ対決が繰り広げられました。ひとつ間違えば命をおとす状況の中で、相手よりも速く走るためだけに、自分の才能だけでなく、つかえるものはすべて利用して挑んだ2人。そこには「ナンバーワンではなくオンリーワンでいい」なんて曖昧な言葉が入り込む余地はありません。
『セナvsプロスト 史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』(マルコム・フォリー)は、タイトルはちょっと恥ずかしいですが、2人の死闘を垣間みることのできるおもしろ本です。プロストのインタビューをメインに構成されているため、プロスト寄りの内容になっているかもしれませんが、「セナ=正義の味方」という日本のメディアの煽りしか触れたことのない人にとっては新鮮なはず。
プロストに勝つだけでなく、破壊しようとしたセナ。それに必死に抵抗するプロスト。プロストが引退した途端、セナが‘カムバックしてほしい’と直々に電話をかけるという2人の関係。この凄まじさを見ると、「ナンバーワンではなくオンリーワン」と、ニヤけた顔して言えなくなります。

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2011年09月23日

新しい自分に出会うために

110924.jpg「自己改革」「新しい自分に変わろう!」など、自己啓発書の帯にはこの手のフレーズがよく書かれています。
もう、まったく同感です!吾輩もゾンビがあふれ出したら、すんなりとゾンビに生まれ変わり、新たなゾンビライフを送るつもりです。といっても、手足をむしりとられ、内蔵にむしゃぶりつかれるために自らのカラダを差し出すほど人間ができていません。そこで、メガトン級の痛みを味わうことなく、気軽にゾンビになれる計画を立てています。
まずゾンビが家に入ってこれないよう扉と窓をしっかり塞ぎ、玄関の扉に指が一本入るくらいの穴を開けておきます。もちろん食料などはしこたまストックしておき、とりあえず耐えられるところまで耐えます。いよいよ‘お腹も超へったし、牛乳石鹸もなくなったし、これはヤバいな’という時が来たら、用意しておいた穴を開けて、ゾンビが指をこじ入れるのを待ちます。そして、ゾンビが指を入れた瞬間、腕に引っかき傷をつけてもらう。これで感染完了。ネコに引っかかれるくらいの痛みで無事ゾンビになれる、まさに画期的なソリューション。ゾンビ化するまでに発熱でしんどくなるかもしれませんが、それくらい我慢する覚悟はできています。
この計画は子どもの時からあたためていて、最近読んだ『ワールド・ウォーZ』(マックス・ブルックス)というゾンビ小説を読んで、‘間違いない!’と確信しました。人間とゾンビの壮絶な戦いを、生き残った人たちの取材レポートというかたちで描いたこの小説は、ド派手な描写をおさえ淡々と語ることで、どっちかというとゾンビより人間の怖さがにじみ出てくるなかなかの作品です。ゾンビ好きの人はぜひ。

さて、そもそもゾンビになることはネガティブなこととしてとらえられていますが、もしかしたら今よりも遥かにハッピーな気分になり、慈愛に満ちた世界が広がっているかも知れないのです。そんなゾンビ化に抵抗するのは、自己改革のチャンスを自らブチ壊しているのと同じこと。皆さんも「その時」が来たら、‘新しい自分に変わるためガンバ!’という気持ちでトライしてみてください。
そんな‘ゾンビの世界は素晴らしいかも’というファンタジーを小説にしたのが、『ぼくのゾンビ・ライフ』(S.G.ブラウン)。吾輩はまだ読んでませんが、このワンアイデアで長編を書くのはかなりツラいんじゃないでしょうか。おそらく『じみへん』(中崎タツヤ)という四コママンガにあったネタは超えられないでしょう。
ちなみに『ワールド・ウォーZ』はブラット・ピット、『ぼくのゾンビ・ライフ』はスカーレット・ヨハンソン主演で映画化が決まっているそうです。何なんでしょう、21世紀になってからのゾンビブームは。

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