アメリカ映画をふり返る
中学の修学旅行でおこなわれたキャンプファイヤーでサングラス。
それが後々これほど恥ずかしいことになるとは思ってもみませんでした。
確かに当時も炎しか明かりがない真っ暗闇でサングラスをかけるのは、ちょっと不自然かなと思わないわけではありませんでした。マーシー仕様のサングラスでキメている割にはフォークダンスで好きな女の子と手をつないで必要以上に緊張し、童貞であることがバレバレになってしまうこともある程度予想できました。
しかし、脳内ではそんなことを吹き飛ばすくらいカッコいい自分の姿がクッキリと映し出されていたのです。
結果は、それから約30年経つ今でも、当時の写真を見るとワキ汗をかかなくてはいけないことになりました。
このように世の中には、後から距離をおいて捉えると、それまで見えなかったことが見えてくることがままあります。そのことを2年前から年に1冊ずつ出版された『80年代、90年代、ゼロ年代 アメリカ映画100』を読んで改めて感じました。タイトル通り10年単位で、今注目に値する作品を100作ずつ紹介する内容なんですが、この本がおもしろいのは作品の紹介ではなく、間にはさみ込まれているコラム。執筆陣は、町山智浩、柳下毅一郎、黒沢清、滝本誠などなど、かなりの充実ぶり。中でも町山智浩氏によるアメリカ映画のBサイド・ストーリー的なコラムは本当に勉強になりました。
テンションが上がり、頼まれもしないのに夜中にひとり黙々と30年分〜300作の映画を監督別に振り分けてみたところ、いちばん多く取り上げられていたのが、クリント・イーストウッドの10作。そのあとにマーティン・スコセッシ、ブライアン・デ・バルマ、スティーブン・スピルバーグの8作がつづく結果に。スコセッシ、デ・バルマ、スピルバーグはどの年代からもコンスタントに取り上げられているのに対して、イーストウッドはゼロ年代に入ってから6作もの作品が選ばれています。70歳を超えてからこれだけクオリティの高い作品を多くつくりつづけていることは圧巻のひと言。
他におもしろかったのは、300作の中では80年代にわずか2本しか選ばれていないのに、次点の150作を加えると、ジョン・カーペンターが一気にトップ集団に飛び込んでくること。これは、彼がB級作品にこだわりつづけていることをよく表しています。
また、80年代は1作だけ選ばれて、それっきり姿を消した、いわゆる一発屋が多いことが浮き彫りになってきました。これって、吾輩がキャンプファイヤーでサングラスをかけたような80年代的な恥ずかしさがを取り入れてしまったことも大きな原因になっていると思われ、これらの監督が「あのときはみんな、オシャレやいうてましたやん!」と嘆く姿が目に浮かびます。
その反動なのか80代後半から90年代前半は、90年代・ゼロ年代に活躍する逸材が多く現れることになりました。
こんな感じでこのシリーズは、過去30年の映画の流れを2012年から見て自分なりに編むことができてすごく楽しい。このシリーズと『ロスト・イン・アメリカ』を読めば、アメリカ映画がさらにおもしろくなること間違いナシ! ただし、自分のはずかしい過去がよみがえってくるかもしれないので気をつけてください。
ソール・バスは絵本も凄かった
このところ休む間もなく、内容もスタイルもバラバラな仕事に携わらせていただき、それは本当に嬉しいことなんですが、心身ともガチガチに固まっている状態です。そんな中、仕事場でなか卯の和風牛丼を食べながらアマゾンを徘徊していると、映画のタイトルバックに革命を起こした天才デザイナー、ソール・バスがイラストを担当した絵本『Henri's Walk to Paris』を発見!
贅沢をして牛丼と一緒に買ったなめこみそ汁をすすりながらレビューを読むと、この作品は世界中の絵本ファンが手に入れるため必死のパッチになっている名作で、今回50年ぶりに復刻されたとのこと。今までアンリの‘ア’の字も知りませんでしたが、そんなことを言われると滅法欲しくなるのが人情というもの。
‘心に潤いを与え、いいアイデアが浮かぶようにするためにも絶対に必要!’と自分に言い聞かせ、前から保留にしていたDVD『ソール・バスの世界』と一緒に購入。和風牛丼となめこみそ汁をセットで買うは、絵本とDVDをセットで買うは、もう、とんでもないことをしでかした気分に。(後ろめたいので届け先は自宅ではなく、仕事場にしました)
そんな『Henri's Walk to Paris』は、パリが大好きなアンリちゃんがパリまで歩く冒険を決行し、途中の森で眠る際に迷わないようパリの方向を示した鉛筆を置いたところ、巣をつくっていた小鳥が鉛筆を見つけてちょこっと動かし…というお話。
ストーリーだけでも淀んだオヤジの心をキュンとさせる魅力を持っていますが、そこにバスのイラストが加わり、この作品を別格にしています。少ない色数で見る者のイマジネーションを刺激する色彩感覚、登場人物の足元しか描かないアイデアや遠近法を活用した映画的な構図など、どれもがすばらし過ぎます!
これは、デザインはもちろん、写真をやっている人も買いでしょう。
一緒に購入したDVDにバスのインタビューが収録されているのですが、彼が語る言葉のシンプルかつ的確なこと。本物の才能を持っている人って、やっぱり核心をビシッと捉えているですね。とか言いつつ、実はこの人、本職の傍ら『フェーズ4・戦慄!昆虫パニック』という珍作を監督しています。ますます奥深い人です。
絶望を楽しむ
歴史に名を残す偉人たち、自分の目指す道で成功する人たちは、「絶対にあきらめない」というネバーギブアップ精神を持っていると同時に、常識という物差しではかれない執着心の持ち主でもあります。普通の人間はそんな境地に行き着く前にあきらめたり逃げたり知らんぷりをして、安住の地へ引き返します。
メディアや交通が発展し、すぐれたものに出会う機会が多い今の時代、刺激を受けることが増えた反面、“もう出つくした感”によるトンズラ傾向も強くなっているんじゃないでしょうか。
話はズレますが、吾輩はFacebookでいろんな人がアップする出来事を鼻をほじりながら眺めていると、みんなとんでもなく楽しくて充実した毎日を送ってるような気がして言いしれぬ不安を感じてしまう有様です。自分も負けずに‘今日食べた○○のチーズケーキ、超ウマい!しあわせ〜’とアップしようかなと思ったりもするのですが、‘それがどうした’という脳内ツッコミが入ってスゴスゴ引き下げてしまいます。
何が言いたいのかというと、圧倒的なものに出会うと大きな感動と一緒に絶望も味わうということです。
『電子音楽 in JAPAN』(田中雄二)という本を読んだ後も甘くて苦い思いがカラダ中をかけめぐりました。この本は日本の電子音楽の歴史、いや世界の電子音楽の歴史について語り尽くした圧倒的な名著です。べつに吾輩には電子音楽の分野で何かを成し遂げてやろうといった野望はこれっぽっちもありませんが、どの世界にもこれくらい突き抜けた人がいるんだなぁと思うと、何もヤル気がしなくなってしまうのです。
この本の著者はYMOのメンバー3人それぞれにインタビューを行った『イエロー・マジック・オーケストラ』という本も手掛けているのですが、こっちもカルピスの原液よりも濃い内容になっています。実際このインタビュー本を読んでから、他のインタビューを読んでもちっともおもしろく感じなくなってしまいました。よっぽど新しい切り口がない限り、このインタビューを超えることはできないでしよう。
そんな絶望を感じたいMな人はぜひ読んでください。
田中氏にはぜひとも90年代以降の電子音楽や、パフュームなど歌謡曲・アイドル界における電子音楽の影響について語ってほしいものです。
posted by ichio : 12:28PM | | trackback (0) | 2011年10月02日ナンバーワンorオンリーワン
「ナンバーワンではなくオンリーワン」。よく見聞きするフレーズで、なるほどと思わないこともありませんが、ニヤけた顔で自分からそう言われると居心地の悪さを感じます。
オンリーワンになるためには、まわりと比較して他にはない存在にならなければならないワケですから、ある意味ナンバーワンよりも険しいイバラの道が待ち受けていると思うのですが。少なくとも「オンリーワン=自分にとって楽な場所」ではないはず。
このことを教えてくれるのがプロスポーツの世界。‘オレは打率2割4分5厘、ホームラン2本、でもオンリーワンの選手なのさ’と言ったところで相手にされないどころか、襟首をつかまれることになるのは間違いありません。‘いやいや、角界のロボコップ、高見盛がいるじゃないか’という声が聞こえてきそうですが、最初からあのポジションを狙うって人はまずいないでしょう。「ナンバーワンこそオンリーワン」、それがプロスポーツ選手の在り方なのです。
この原理をもっとも過激に、そしてもっともドラマチックに体現したのがアイルトン・セナとアラン・プロスト。80年代半ば、F1で頂点を極めていたプロストに新鋭セナが挑んだ、俗にいうセナプロ対決が繰り広げられました。ひとつ間違えば命をおとす状況の中で、相手よりも速く走るためだけに、自分の才能だけでなく、つかえるものはすべて利用して挑んだ2人。そこには「ナンバーワンではなくオンリーワンでいい」なんて曖昧な言葉が入り込む余地はありません。
『セナvsプロスト 史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』(マルコム・フォリー)は、タイトルはちょっと恥ずかしいですが、2人の死闘を垣間みることのできるおもしろ本です。プロストのインタビューをメインに構成されているため、プロスト寄りの内容になっているかもしれませんが、「セナ=正義の味方」という日本のメディアの煽りしか触れたことのない人にとっては新鮮なはず。
プロストに勝つだけでなく、破壊しようとしたセナ。それに必死に抵抗するプロスト。プロストが引退した途端、セナが‘カムバックしてほしい’と直々に電話をかけるという2人の関係。この凄まじさを見ると、「ナンバーワンではなくオンリーワン」と、ニヤけた顔して言えなくなります。
新しい自分に出会うために
「自己改革」「新しい自分に変わろう!」など、自己啓発書の帯にはこの手のフレーズがよく書かれています。
もう、まったく同感です!吾輩もゾンビがあふれ出したら、すんなりとゾンビに生まれ変わり、新たなゾンビライフを送るつもりです。といっても、手足をむしりとられ、内蔵にむしゃぶりつかれるために自らのカラダを差し出すほど人間ができていません。そこで、メガトン級の痛みを味わうことなく、気軽にゾンビになれる計画を立てています。
まずゾンビが家に入ってこれないよう扉と窓をしっかり塞ぎ、玄関の扉に指が一本入るくらいの穴を開けておきます。もちろん食料などはしこたまストックしておき、とりあえず耐えられるところまで耐えます。いよいよ‘お腹も超へったし、牛乳石鹸もなくなったし、これはヤバいな’という時が来たら、用意しておいた穴を開けて、ゾンビが指をこじ入れるのを待ちます。そして、ゾンビが指を入れた瞬間、腕に引っかき傷をつけてもらう。これで感染完了。ネコに引っかかれるくらいの痛みで無事ゾンビになれる、まさに画期的なソリューション。ゾンビ化するまでに発熱でしんどくなるかもしれませんが、それくらい我慢する覚悟はできています。
この計画は子どもの時からあたためていて、最近読んだ『ワールド・ウォーZ』(マックス・ブルックス)というゾンビ小説を読んで、‘間違いない!’と確信しました。人間とゾンビの壮絶な戦いを、生き残った人たちの取材レポートというかたちで描いたこの小説は、ド派手な描写をおさえ淡々と語ることで、どっちかというとゾンビより人間の怖さがにじみ出てくるなかなかの作品です。ゾンビ好きの人はぜひ。
さて、そもそもゾンビになることはネガティブなこととしてとらえられていますが、もしかしたら今よりも遥かにハッピーな気分になり、慈愛に満ちた世界が広がっているかも知れないのです。そんなゾンビ化に抵抗するのは、自己改革のチャンスを自らブチ壊しているのと同じこと。皆さんも「その時」が来たら、‘新しい自分に変わるためガンバ!’という気持ちでトライしてみてください。
そんな‘ゾンビの世界は素晴らしいかも’というファンタジーを小説にしたのが、『ぼくのゾンビ・ライフ』(S.G.ブラウン)。吾輩はまだ読んでませんが、このワンアイデアで長編を書くのはかなりツラいんじゃないでしょうか。おそらく『じみへん』(中崎タツヤ)という四コママンガにあったネタは超えられないでしょう。
ちなみに『ワールド・ウォーZ』はブラット・ピット、『ぼくのゾンビ・ライフ』はスカーレット・ヨハンソン主演で映画化が決まっているそうです。何なんでしょう、21世紀になってからのゾンビブームは。
『GREEN LIFE』
いとうせいこうさんの『ボタニカル・ライフ』を読んだのがきっかけで、ぽつぽつ植物を育てるようになったのですが、これが思うようにうまくいきません。普通に水をやっていれば普通に花が咲いたり実がなったりするようなものばかりなのに、普通に枯れてしまうんです。ひどいものだと、苗を買って2日ですべての葉が落ちてしまったこともあります。この前は、つれ合いのお義父さんにもらったゴムの木を瀕死の状態にしてしまい、強制返還という事態に。こうも惨事がつづくと、自分に疫病神がついてるんじゃないかと心配になります。
枯れていないものも、お店に置いてあるものとは明らかに違うブサいくなカタチになっていたりします。中には‘これ、買ったときと種類ちがってない?’という、雑草パラサイト疑惑のあるヤツも。でもまぁ、こっちが勝手に雑草と決めつけて葬るのもひどい話なのでお世話しています。
こんな感じで極めていい加減に植物とつき合っている中、スタイリストの熊谷隆志氏の『GREEN LIFE』という本を発見。熊谷氏は何年か前に植物にハマって以来、自宅の庭でいろんな植物を育てるなど、濃度の高いグリーンライフを楽しんでいらっしゃる様子。(庭だけでなく住まいもこれまたイカすんです)
本の内容は、彼が訪れた世界中のまちの緑や庭を紹介するというもの。いわゆる情報量は少ないんですけど、‘こういう楽しみ方もあるんだな’というスタイルやセンスを垣間みることができてテンション上がります。特にロサンゼルスの庭にビビッとくる。青く乾燥した空の下で育つ、色鮮やかな草木のカッコいいこと。
こういうナイスな庭を見ると、自分ももう少し手間をかけたほうがいいのかなと思ったりします。ということで目下の目標は、行楽帰りのオッンのように元気のないアサガオに花を咲かせること、ブサいくになってきたオリーブの姿勢を直すことです。
『安藤忠雄の都市彷徨』
旅は人間をつくる。僕もまた、世界中の都市という都市を訪れ、通りという通りを巡り、路地という路地を歩き重ねてきた。緊張と不安のなかで見知らぬ土地をひとりさ迷い、孤独に苛まれ、戸惑い、途方に暮れ、しかしそこに活路を見いだし、なんとか切り抜けながら旅をつづけてきた。(中略)旅は孤独だ。そして予期せぬことにしばしば出会う。人の人生もまた同じだ。
『安藤忠雄の都市彷徨』に書かれたこの序文を読んだだけで、フワーッとした気分になってしまいます。素晴らしい。
この本には、闘う建築家、安藤忠雄が世界のさまざまな都市を訪れ、建築や街の息づかいにふれて感じたことが書かれています。旅の大半は、安藤氏がまだ建築家として名を馳せる前に鞄ひとつで出掛けた体験が出発点になっていて、それらの旅は今もつづいていることが伝わってきます。よく言われることですが、旅ってカラダ以上に心が動くんですよね。
吾輩は滅多に旅に出るタイプではありませんが、いや、だからこそ ‘新たな発見’や‘ノスタルジー’など、特別な憧れを持っています。
ちなみに人にはあまり知られたくないのですが、吾輩にはひとり旅に出て悦に入るシーンを想像して聴く曲「旅ソン」がいくつかあります。
‘カワイイ彼女がほしい〜!’と毎日悶絶していた(実際は聞いちゃいられないほど悲痛な叫びでしたが)若い頃の旅は、40を過ぎた今でもふとした時に思い出し、当時から変わったことや変わらないことに思いをめぐらせます。
また、この本を久々に本棚から出したことで、はじめて読んだ時とは違う感想が出てきたりして、読書という体験も旅なんだなと改めて感じました。
‘そう’なんです
‘男の顔は履歴書、女の顔は請求書’といわれるように、ある程度歳を重ねると、シミや加齢臭と一緒にどんな生き方をしてきたのかが顔に滲み出てくるもの。故に人は顔で性格や生き様、地位などを想像したり、されたりします。
顔から人物像を想像する場合、美男美女なのかどうかは関係なく、部位あるいは顔全体から漂うオーラによって判断するのがスタンダードといえるでしょう。
例えば先日、フィギュアスケート世界女王に輝いた安藤美姫チャン。思うような結果が出せず文句ばかり垂れていた頃の美姫チャンは、正直「バイ菌軍団」に出てくるキャラクターにしか見えませんでしたが、バンクーバーオリンピック前あたりから充実感が顔にみなぎり、今ではスケーティングだけでなくルックスも‘もしかしたらキレイかも’という錯覚に陥るほどです。それほどまでに「相」というものは、人の内面を表すのです。
このことは、ちょい前にゲットした『人相学入門』(八木喜三郎)という本からも学びました。表紙を飾るアクの強い面々、これだけで‘恐れ入りました!’という感じです。
もう察しがついていると思いますが、完全なアホ本です。さまざまな角度から人相について論じているのですが、中には‘昔、こういう顔の人にイヤな目にあわされたんじゃないの?’と思ってしまうようなオリジナリティあふれる解説があったりします。
藤山寛美センセの多彩なアホ顔写真満載のコーナーや、犬と飼い主の相性をみるコーナーがなかなかのインパクトを放っているのですが、ダントツなのは子どもの写真を載せて、その子の将来の適性を語るコーナー。企画自体極めてレッドカードに近い内容にも関わらず、著者はそんなことおかまいなしに「本人、両親、先生などの考えていることと相違があるかもしれないが、再考をお願いしたい」とまで言い切る自信の持ちよう。この本がきっかけで道を踏み外した子どもがいないことを祈るばかりです。
旬な雑誌『waxpoetics JAPAN』
「雑誌は立ち読みで済ます」というスタンスがすっかり定着してしまったこの頃。それは「お金がもったいない」という、単なるセコさが原因なのですが、少ない小遣いを切り崩してでも買ったるわいッ!と思わせる雑誌がもうちょっとあってもいいところ。
そんな中、多彩な不祥事で名の通り土俵際に立たされている相撲界において、シコアサイズで培った粘り腰と不気味な薄笑いで頑張っている貴乃花親方のように孤軍奮闘しているのが『waxpoetics JAPAN』。
この雑誌、ソウル、ジャズ、ヒップホップといったジャンルにとらわれることなく、ブラックミュージックという広い括りで音楽だけでなく周辺のカルチャーまで紹介する、非常に濃ゆ〜い内容になっています。
カーティス・メイフィールドの表紙がナイスな目下最新の13号では、60年代半ばに初めて黒人による黒人の‘ろくでなし小説’を書いたアイスバーグ・スリム、P-ファンクのアートワークを手掛けたオヴァートン・ロイドをはじめ、スパイク・リーや井上三太のインタビューまで収録する風呂敷の広げよう。
やっぱり雑誌というのは、こういうゴッタ煮テイストのあるものがいい。一見バラバラに見えても、統一されたテーマでひとつの世界観をつくっている。その世界観にふれることで、自分も新しいものの味方に気づいたりするんですよね。例えば、洋モノのポルノとハードロックとスーパーカーを取り上げていても、「男に生まれたからには弾けんと損!」というテーマがあればOK。雑誌というのはそういうもんじゃないでしょうか。(ホンマかいな)
『waxpoetics JAPAN』、お値段は少々張りますが、それだけの価値はあります。
市川崑のタイポグラフィ
いろいろな雑誌やサイトで取り上げられ話題となっている『市川崑のタイポグラフィ』(小谷充)を遅ればせながら読みました。評判通りおもしろい。どれくらいおもしろいかというと、『北斗の拳』で狂ったトキの正体はアミバで、本物はカサンドラの牢獄に閉じ込められていることが分かった時くらいおもしろいといえば分かっていただけますでしょうか。
おもしろさのポイントは2つ。まず、『犬神家の一族』にはじまる金田一シリーズのオープニングを題材にしたこと。みんなが心の隅っこに引っかかっていたものを、‘これが欲しかったんでしょ’と差し出したところが心憎い。
吾輩があのオープニングに遭遇したのは、小学生の時に親戚のおばちゃんに連れて行かれた『悪魔の手毬唄』が最初。この時‘カッコいい!’と感心することはまったくなく、逆に‘ダサっ!字、ならべてるだけやん!’と、突っ込んでいた記憶があります。ただ、強烈なインパクトがあったことは確か。
話は逸れますが、吾輩は小さい頃、一緒に『悪魔の手毬唄』を観たおばちゃんによく映画に連れて行ってもらっていました。おぼえているだけでも『悪魔の手毬唄』の他に、同じく金田一シリーズの『悪魔が来りて笛を吹く』『ジョーズ2』『ピラニア』『オーメン2〜ダミアン』『オーメン3〜最後の闘争』など。
これ、怖いもんばっかりですやん! どうしてまだ脳が固まっていない子どもをこんなろくでもない映画ばかりに連れて行ったのか? 今なら完全にアウトな行為ですよね。しかも調べてみたら、『オーメン3』以外は全部1978年の作品…。真剣に気味悪くなってきたので、この話はここでやめておきます。
気分を切り替えて本の話に戻ると、おもしろさの2つ目のポイントは読み物としてもよく出来ていることです。内容の大筋はオープニングでどの書体が使われていたのかを探る非常にマニアックなものなのに、そんなことを知らなくても楽しめるようになっています。市川監督本人の証言を疑うところからはじまり、金田一探偵のように真相に迫って行く過程は映画に負けないくらいスリリング。
年に何回かは見ている『犬神家の一族』ですが、この本を読んだせいでまたまた観たくなってきました。市川崑×石坂浩二のゴールデンコンビによる残りの4作品(『犬神家〜』リメイクは除く)を収録したDVDボックスも欲しいんですが、いかんせん値段が…。
本屋で
プチ忙しい山も峠を過ぎて、一寸ひと息。作業の内容もジャンルも異なる仕事をいくつも同時にしていたせいで、もとからとっ散らかった頭がさらにグツグツのごった煮状態に。気分転換に本屋さんに行ったら、知らない間に「せんとくん」のグッズコーナーにしゃがみ込み、物色してました。イカすシールがあったのですが、ひとまずスルー。それにしても「せんとくん」、見るたびにカワイさが増してくる。
登場した当初の「せんとくん気持ち悪い騒動」は何だったんでしょうか。(もちろん吾輩はまだ「せんとくん」という名前がない頃から彼を応援しており、「おならくん」というネーミング案を応募しました)今思えばあれは、ネイティブな縄文文化と管理され記号化された弥生文化のせめぎ合いだったんじゃないかと思います。こっぴどくいじめられた「せんとくん」がどちらにあたるかは、いわずもがなです。
さて、話はかわり、本屋さんを歩いているとトマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』が出ているのを見つけてビックリ。と、カッコ良さげなことをいっても、前作の『ヴィンランド』も読んでいないし、『重力の虹』も途中で逃げ出したクチなので、‘読まんと裸で十字架に張りつけて女子大にさらすぞ!’と脅されない限り、読まないと思います。というか、喜んでさらされます。
何がいいたいのかというと、吾輩の性癖ではなく、ピンチョン同様これまた新しい作品(といっても随分前に発売されていたようですが)『南の子供が夜いくところ』を出していた恒川光太郎のことです。
この人はデビュー作の『夜市』で日本ホラー小説大賞をとったホープ。ホラーといってもおどろおどろしい作風ではまったくなくて、幻想的なダークファンタジーといった感じでしょうか。読んでいるうちにどこか別世界につれて行かれる感覚はアンビエント的ともいえます。シンプルな文章で、不気味なのに美しい世界を描き出す彼の作品はもっと多くの人に読まれていいはず。個人的には『夜市』に収録されている「風の古道」という短編がいちばん好き。
しかし、ちょっと難点が。作品自体はどれも素晴らしいのですが、カバーデザインが何とも……。
追記
偶然にもこのエントリーを書いた次の日に、新作『竜が最後に帰る場所』が発売されていました。
農村の婦人
某本屋さんで1950年代に岩波書店から出ていた岩波写真文庫のバックナンバーを発見。『家庭の電気』『汽車』などグッとくるタイトルが並ぶ中、『農村の婦人〜南信濃の〜』をチョイス。まずもって写真が素晴らしいことと、サブタイトルにわざわざ南信濃「の」が付いている居心地の悪さに心を奪われました。
内容はタイトルの通り、農村で暮らす女性や子どもたちの暮らしぶりをクローズアップしたもので、全精力を注ぎ込んであるひとつのメッセージを伝えようとしています。それは、‘農村の婦人は悲惨だ’ということです。序文に農村婦人の現実を知ってほしいという筆者の想いが綴られており、その意気込みはビンビン伝わってくるのですが、いかんせん、過酷、苦渋、貧しい、惨めなど、ネガティブな言葉のオンパレードで、読んでいるうちに重たい気分になってきます。
確かに戦後間もない頃の農村はそうだったんでしょうけど、この本を読んだ農村婦人たちはきっとカチンときたんじゃないかと思います。飲み会なんかで自虐的なことを言って笑ってもらっている時にあんまり親しくない人が乗っかってきて、‘お前に言われたないわ’とイラッとくる、あの感じと同じだったに違いありません。
大げさでなくホントに最初からずっと農村婦人の報われなさが書かれていて、最後にやっと「明」という章が設けられ、これからの日本は農村の人たちの暮らしが豊かになるよう努力しなければならないと締めくくられていてホッとしたのも束の間、次の最後のページに「暗」という章が待ち受けており、やっぱり農村婦人は悲惨だとダメ押ししてきたのにはビックリしました。
ここで吾輩はピン!ときました。この筆者は調子にのっているなと。キャプションでも「なんとなく農家の庭先(の写真)なんかをならべてみた」と書いてあるなど、呑気というか高飛車なスタンスを感じなくもない。この本が出版された頃は高度成長期のはじまりで、都市部の人間が浮かれるのも分かりますが、やっぱり何かイラッとくる。今となっては写真だけ見た方が多くのことが伝わってくる気がします。
教授〜アウトバーン〜トラベル
ここ数ヶ月の楽しみといえば、坂本教授がナビゲートをつとめる音楽番組「スコラ」を観ること。その影響で坂本〜YMOブームがおこり、その流れでクラフトワーク ブームも到来。特に『アウトバーン』にハマり、取り憑かれたように夜中に何回も聴いていました。
話はちょっと戻り、「スコラ」を観ようとチャンネルをエヌエイチケイに合わせたら、いきなり脳髄を刺激するビジュアルが飛び込んできました。それは横山祐一の「わたしは時間を描いている」という展覧会の紹介でした。マンガ家でありイラストレーターでもある横山氏、フランスなど海外で高い評価を得ていらっしゃるそうなのですが、マンガにとんと疎い吾輩はまったく存じ上げませんでした。
テレビで取り上げられていたのは『トラベル』という作品で、その絵を見た瞬間、吾輩の頭に『アウトバーン』がバーン!と浮かびました。
まず、シュールでそこはかとなく漂うユーモアがCOOL! 定規を駆使して描いたという絵は、クラフトワークのグルーヴ感を排除した機械的なリズムと重なります。個性をなくすことで逆に個性をつくり出すという狙いも似ている。
また『トラベル』はセリフがひとつもなく、登場人物が列車に乗って、目的地に着くまでの時間を描くというかなりチャレンジングなことをしているとのこと。この設定は、言わずもがなです。
ということで、さっそく『トラベル』を読む、というか眺めてみました。
期待通り、すごいトリップ感です! 視点が主人公らしき3人衆をはじめ、すれ違う乗客、列車の上空を飛ぶ鳥、線路脇に生えている草など、さまざまなものに憑依しながら、のびたり縮んだりする歪んだ時間を描いています。それは、時計が刻む外的な時間ではなく、意識の中に流れる内的時間。
こういう設定をいかにもSFチックな設定で描くのではなく、ごくごく平凡な日常を切り取って描くところも『アウトバーン』と同じといえるでしょう。
このマンガを見たら、電車で旅がしたくなること間違いナシです。
最近の読書日記
ふと気がつくと、このところ映画に関する本ばかり読んでました。あらためて興味の幅の狭さにトホホ感を感じ、これではいかんと、無理矢理気味に自然に関する本なんかを買って心のバランスを保っています。
読んだ映画本のタイトルをザッと挙げると、『シネマ21 青山真治映画論』(青山真治)、『ユングのサウンドトラック』(菊地成孔)、『映画は遊んでくれる』(芝山幹郎)、『絶望・断念・福音・映画』(宮台真司)、『「世界」はそもそもデタラメである』(宮台真司)。
こうやって書くと何となく自分が‘かしこ’に思えてくるからうれしい。
本の中でピックアップされている映画は結構かさなっていたりするのですが、それぞれの感想・評価が全然違っていてなかなかおもしろい。賢い人がこうなんだから、映画の見方に正解なんてものはないんだなと感じる。
また、こういう批評文やエッセイなどの読み方も自由で、吾輩の場合は映画を材料にしたエンターテイメントとして楽しんでます。だから、いかにおもしろい切り口・語り口で世界観をつくってくれるかが大切。今回挙げた本の中にも、言ってることは鋭かったり立派だったりするのかもしれませんが、単純に読んでいて退屈というものもありました。
あと、作り手が書くこういった文章でチラホラ見かける‘つくる人間の方がエライ’ ‘だったらお前がつくってみろ’的なフレーズに遭遇すると、まだそんなこといってるんですか?!とガックリきます。
そういう時は『そこがいいんじゃない!みうらじゅんの映画批評大全2006-2009』(みうらじゅん)でスキッとするのがイチバンです。
えほんにまつわるおはなし
テレビを見ていたら もののけと子どもがたわむれている映画の宣伝が流れ、おチビからそれが『かいじゅうたちのいるところ』だと教えられる。‘へぇ〜そうなんや、メッチャおもしろそうやん’とリアクションしながら、心の中では‘また動物(ミュータント)と子どもを利用した商売をしおってからに!’と腹を立てていました。
その後またまたおチビに原作の絵本があることをレクチャーされ、ヤフってみたら世界中で知られている名作とのこと。しかも映画はスパイク・ジョーンズが監督しているじゃありませんか! さっそくサイトで予告編を見たら、もうそれだけで泣きそうになりました。たぶんスパイク・ジョーンズが監督と知らなかったら、‘どうなんこれ?’と、顔を歪めたままだったでしょう。我ながらミーハーだと思います。
そんなワケで(どんなワケか分かりませんが)、ウチは小さな子どもがいるので絵本にふれる機会が多い環境であります。今までも『もこもこもこ』や『こっぷ』など(どちらも谷川俊太郎 作)、子どもから借りパクしたいナイスな絵本と出会いましたが、借りパクリストに新たな作品が加わりました。タイトルは『よしおくんがぎゅうにゅうをこぼしてしまったおはなし』(及川賢治・竹内繭子)。もう、このタイトルだけでグッと胸元をえぐられます。
最初この本を見つけた時、タイトルと絵面に惹かれたので、おチビに読ませて(つれ合いに)買ってもらう戦法をとったのですがあえなく失敗。おチビも気に入ったようで、後日一緒に本屋に行った時も同じようにアプローチしたもののまた失敗。つれ合いのあまりのスルーっぷりに‘吾輩のセンス、イケてない?’と不安になってくる始末。
そんな静かな神経戦がつづいたある日、つれ合いが‘コレ、かわいいやん!’と声をあげるので手元を見たら、何と『よしおくんが〜』を持っているではありませんか。こっちの涙ぐましいアピールはまったく届いていませんでした。
そんなこんなでめでたくゲット。話は夢を見ているような飛躍ぐあいで、ほどよいワケの分からなさが心地いい。文章も緩急があって楽しい。(絵本の文って‘コレ、どんなんですか?’というものが多くありませんか?)
吾輩も商売柄、我が子にオリジナルの絵本を描いてやろうと思ったりもするのですが、なんかスプラッターな方向にいきそうで心配です。
きっとあるパラダイス
パラダイスというものが本当にありはしないかと最近真剣に考えます。
天国ではなくパラダイスです。天国というと悟りをひらいた人が行くところで、どうも退屈そうな感じがして住む気になれません。そこにくるとパラダイスは俗世とつながっていて、自分の欲望を存分に満たしてくれると思うのです。
お金や将来の不安もなく、年がら年中心地良く過ごせる。お腹が減ってキッチンに行けば、聖帝サウザーの食卓のように大好きなハンバーグやちょっと冷めたカレー、すき焼きの後に食べるうどんが用意されていて、食後にはイチゴタルトが出てくる。音楽が聴きたいと思えば、その時の気分にピッタリの音楽が流れてくる。そして当然のことながら、まわりにはプレミアム級の美女が吾輩を取り囲みます。これぞパラダイス。でもまぁ、こんなところにいたらアホになってしまう気もしますが、まったく構いません。
しかし、そういうところはなかなか見つからないもので、仕方なく架空のパラダイスにお邪魔して束の間の現実逃避を楽しむことになるワケです。
そのサポートをしてくれるブツのひとつが、伊藤桂司さんの作品集『FUTURE DAYS』。ここに収められている作品は、海外のいろいろな雑誌を切り抜きコラージュしたもの。いかにも能天気なリゾートの写真とゼリーの写真などありえないものを合体させることで、甘いだけでなく、ちょっと毒がある摩訶不思議な世界を作り上げています。この感触を例えるなら、女のコにモテモテの夢を見ている最中に、‘これは夢だぞ、調子にのるな’というセルフツッコミが入るあの感覚と似ています。それが吾輩のパラダイス観と結びついて惹かれているんじゃないかと思います。
伊藤氏はコラージュだけでなくペインティングでも独自の世界を追い求めている人。この世界に一度迷い込んだら、なかなか抜け出せません。
スタジオボイス休刊
『スタジオボイス』、休刊してしまったんですね。知りませんでした。ここ何年か買うことも少なくなり、ちょい前に立ち読みしたら全然おもしろくなかったので‘このままではマズいのでは…’と思っていたらホントに休刊してビックリです。創刊33年目の休刊、ちょっとばかり感慨にひたってしまいます。
この雑誌は、吾輩にとって10代後半からカルチャー関連のいろいろなことをレクチャーしてくれた教科書的な存在。こんなこといったら親にしばかれますが、大学の授業の何百倍も多くのことを教わりました(そもそも授業にはほとんど出てませんでしたが)。
そういえばよく、『スタジオボイス』とエロ本をセットで買ってたなぁ。下宿に帰ってどっちを先に見るか、おおいに悩んだものです。
休刊の理由は発行部数の低迷。ネットの普及やカルチャーへの関心の低下といった背景もあると思いますが、さきほども申しました『スタジオボイス』自体のおもしろさが薄れていたことも原因のひとつなんじゃないかと思います。
でも、創刊当初はとんがった内容だったのに売れ線にシフトして延命する雑誌が多い中、『スタジオボイス』のカルチャーにこだわる一貫した姿勢は男前だったと思います。
さて、その『スタジオボイス』が'08年に特集を組んだ「アンビエント&チルアウト」をバージョンアップさせた『アンビエント・ミュージック 1969-2009』が出ました。ずっとアンビエント・ミュージックをしっかりまとめた本が出ないかなと思っていたので期待したのですが、残念ながらガッカリな内容。ディスクのセレクトもコメントも中途半端で、まったくかゆいところに手が届かない。書籍として出すなら、もっと広く・深く掘り下げてほしかった。というワケで買わずに立ち読みのみ。こんなこといったら何ですが、監修は三田格氏よりもっと適任者がいたんじゃないでしょうかね。
何か後味の悪い終わり方になってしまいましたが世の中そういうこともあります。
シソウノウロウ
本屋さんをのぞいたら『ニッポンの思想』という興味深いタイトルの本を発見。著者は佐々木敦。この人は映画・音楽・文学などカルチャー関連の批評や雑誌編集をしている人で、本や雑誌が出るとなるべくチェックするようにしています。
そんな人がバリバリの硬派というか、自分とはほど遠い‘思想‘というフィールドに足を踏み入れたということでさらに関心は高まる。今思えば、近著『批評とは何か? 批評家養成ギブス』でも、タイトル通り語られる対象が批評そのものになっていたので、今回の流れは自然だったのかもしれません。
さっきから思想、思想っていってますが、‘思想’とは一体何なのか? ……そんなこと、吾輩が分かるワケがありません。考えただけで死相がでてしまいそうです。そもそも‘思想’という言葉を見ただけでアレルギー反応がでる体質ですから。なのでこの本の内容も、80年代(ニューアカ)以降のニッポンにおける思想界の動向をざっくり紹介しているという以外説明することができません。
各年代で活躍した代表的な思想家が登場するのですが、吾輩は90年代以降に活躍した人たちの活動についてはほとんどノータッチで、‘自分がエロい妄想をしている間にそんな難しいこと考えてはったんやぁ’と感心するばかり。
ニューアカを代表する浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人に関しては若い頃に背伸びしていろいろ読んだ記憶はあるのですが(本棚の奥をのぞいたら確かに本はある)、内容は驚くほどきれいさっぱり忘れてしまっている。おもしろかったかどうかすら覚えていないということから察するに、単に目で字を追って読むふりをしていただけだったのでしょう。まぁ、それをいったら今も同じなんですが、少なくとも自分が理解していないことだけは分かっているつもりです。嗚呼、虚しい…。
で、佐々木氏ですが、近い将来にこれらの現代思想の流れを踏まえたうえで自分なりの論考を本にまとめるとのこと。楽しみにしていいのかどうか、これもさっぱり分かりません。
パンツを履かない男の生き様
前からずっと気になっていた『俺、勝新太郎』を、やっとこさ読む。いろいろなところで傑作といわれ、さらに帯でも‘ギャングスタ芸能人、勝新の俺節を聴け!’なんてそそるフレーズが書いてあるもんだから期待も最高潮に高まっていたのですが、思っていたよりも随分まともで肩すかしを喰らう。実際に本人が筆を執っているのかは知りませんが、文章がうまいせいで勝新が放つアドレナリンパワーをスケールダウンさせてしまっているような気がします。(でもまぁ、やってることはメチャメチャです)
勝新本人はギャングスタ芸能人だと思いますが、この本はオーバープロデュース。これなら、内田‘シェケナベイベェ〜’裕也の『俺はロッキンローラー』の方がおもしろい。
そして解説で古田豪が書いているように、世間を唖然とさせたマリファナ・パンツ隠し事件をはじめとするおもしろエピソードについてほとんど触れられていないのがすこぶる残念。編集者は続編を考えてセーブしたのか、それとも勝新が自粛したのか。いずれにしてももったいない。
それでもこの本を読むと、豪快なイメージのある勝新が、自分のことを後輩がどう思っているのか気になって、隠しマイクを仕込んで盗み聞きするなど気の弱い一面もあったことが分かって楽しい。(何をしとんねん!)
よく‘自分とは180度違う人’なんて言い方をしますが、自分に当てはめたら、それは勝新です。
そして、改めて昭和って、おもしろい人がいっぱいいたんだなぁと実感。すっかり吊し上げ社会になってしまった今、勝新や横山やすしが生きていたら、さぞかし嘆いていたことでしょう。
それにしても表紙の写真、渋すぎます。
毒書
ここ一週間仕事がヒマ気味だったので、何冊か本を読む。村上春樹の新作『IQ84』も気になっているのですが、今この話題作に飛びつくのも何か恥ずかしい気がしてスルー。(吾輩が何の本を買おうが、だ〜れも気にしちゃいないのは分かっていますが…。『石立鉄男 オフロ DE アフロダンス』というタイトルなら一日くらいは店員さんにおぼえてもらえるかもしれませんが、残念ながらそんな本はこの世に存在していません)
そういうワケで『IQ84』は見送ったものの村上春樹を読みたいという気分は残っていたので、彼が地下鉄サリン事件の被害者62人にインタビューをした『アンダーグラウンド』を読むことに。(吾輩のようなシャイネスボーイは結構いらっしゃるようでようで、書店には必ずといってよいほど村上春樹の過去の作品コーナーがあります)
インタビューは事件のことだけではなく、被害者の事件前後の暮らしもクローズアップしていて、サリン事件とそれを生み出した社会がどれだけ恐ろしいかを浮き彫りにしています。村上春樹らしく、正義を振りかざしてオウム真理教を叩くものでもお涙頂戴の本でもありませんが(もちろん事件を肯定しているワケではありません)、それでもやはり最後に収められている30代前半で命を失ってしまった方の家族の話は涙なしでは読めません。
また読み物としても、被害者が話す断片的なエピソードが重なり合って全体像が見えてくる臨場感があります。
そんな『アンダーグラウンド』を読み終わり、次はつれ合いが図書館から借りてきたものを拝借しようと思って見てみたら、どういうワケか『ヤクザ・マネー』という本が。何に関心を示してるんでしょうか。 このタイトルを見てビンと来た、つれ合いの脳内の電気作用を想像すると笑けてきます。いやはや、知り合って15年以上になりますが、いまだに意表をつかれます。