おっさんも魅了されるリトル・シムズ
チーズカルビ乗せのにぎり寿司・・・・。回転寿司に行くたびに子どもがこの違和感しかない組み合わせのお寿司を次々にすくい取る姿を見て、昭和ど真ん中生まれのおっさんにはなかなか理解し難いといいましょうか、そもそも今の若人とは感覚自体が違うんだなと感じさせられます。
ただ、はなっからチーズカルビ乗せのにぎりを否定するのも大人としてどうかと思い、試しに食べてみたのですが、マグロやタイの皿よりも優先させて捕まえる動機をまったく見いだせませんでした。
お寿司に関してはZ世代のにぎりが食べられなくてもまったく気にならないものの、音楽に関しては自分なりに新しいものにもふれておきたいという意識はまだ残っております。(自分で新しいと思っている音楽が、若い人にしてみれば「はぁ?」ということあるかもしれませんが)
というワケで、去年スポティファイに勧められて聴いたのがリトル・シムズという女性ラッパー&アーティストの『Sometimes I Might Be Introvert』というアルバム。
いいやないですか。2000年以降のエレクトロ色の強いサウンドに、歌っているようなラップを乗せた音は、「嫌いではないけど、そればかりだと脂っこ過ぎて胸やけがする」パンシロン状態でしたが、このアルバムは抜けが良くてフレッシュ!
確かにこのアルバムにもエレクトロミュージックや大仰なアンサンブルなど胸やけ成分はあるのですが、明らかには他とは違う“何か”があるのは間違いありません。
『Sometimes I Might Be Introver』を際立たせている要素として、まずエレクトロミュージックと生演奏、あるいはヒップホップとソウルとの絶妙なブレンド具合や、彼女のひょうひょうとしたラップが挙げられます。が、もっとも強烈なインパクトを放っているのは、「Speed」や「Point and Kill」「Fear No Man」に取り入れられているアフロミュージック。少しとんま風味なベースミュージックを下地にして、ポリリズムとアフロファンクなホーンを絡めたサウンドは呪術度高し。そこにリトル・シムズの体温低めのキュートなラップが乗ることで唯一無二の世界になっています。
配信先行で発表された新作も最高だし、ケンドリック・ラマーが「本物だ」と認めるのも納得です。
そういえばここ数年、ブラックミュージック界隈でアフリカ回帰が色濃くなっていますね。個人的にもアフロミュージックへの関心が高まっているのですが、沼るのが怖い・・・・。
映画にまつわる話
この数年ズルズルと継続していた某CS放送サービスから、Netflixへシフトしました。厳密にいうと、F1を観るためにCSの1チャンネルを残し、5チャンネルパックを解約。いっそのことDAZNにも入ろうかと勢いづいたのですが、お値段を見た瞬間にしゅるしゅると萎んでしまいました。
Netflix、メチャいいじゃないですか! 入会の手続きは簡単だし、観たいコンテンツはいっぱいあるし、なんで今まで入会しなかったのか、自分に喝を入れてやりたい気持ちです。
ただ、映画でいえばSpotifyレベルに作品が揃っているわけではなく、検索をしても結構な確率で「ありません」と突っ返されるのですが、まぁ許しましょう。そうはいっても観たい作品は山ほどあり、嬉しさのあまりわけがわからなくなり、「釣りバカ」シリーズから観はじめるという贅沢な使い方をしてしまいました。
さて、劇場鑑賞の方も去年の暮れから今年に入って良作がつづいていてゴキゲンです。なかでも特におもしろかったのが、『ザリガニの鳴くところ』、『イニシェリン島の精霊』、『バビロン』、『ベネデッタ』あたりでしょうか。
『ザリガニの鳴くところ』は去年に観たということもあり、すでに記憶が薄れているものの、おもしろかったことだけは印象に残っております。
そういう意味では『イニシェリン島の精霊』の記憶も危ういのですが、監督のマーティン・マクドナーの前作『スリー・ビルボード』と同じく、平坦な日常が崩れた時に起きるさらなる悪循環を、オフビートなユーモアを交えて描いていたことは覚えています。あと、コリン・ファレルの八の字眉毛の困り顔がサイコーなことも。
賛否両論の大作『バビロン』、僕はかなり楽しませてもらいました。『ブギー・ナイツ』の構成をまるっと借用しながら、さまざまな過去作品のオマージュを絡めて、映画がサイレントからトーキーへ移り変わる様を描いており、それは嫌をなしに劇場での鑑賞からサブスクによって家や出先で観るスタイルへと変わり、従来の“映画”が終わりつつある今の状況とオーバーラップして泣けました。
『ベネデッタ』は、鑑賞前はポール・パーホーベンが何やら宗教を扱った小むずかしい映画を撮ったんじゃないの?!という不安がよぎったのですが、要らぬ心配でした。やはり、ポール・パーホーベンはポール・パーホーベン。内容は最初から最後まで立派なエログロ・サスペンスでした。いやぁ、80歳を超えてこのパワー、感服しかありません!
あと、先日『シン・仮面ライダー』も鑑賞したのですが……、ここでは触れないでおきます。
期待に胸膨らませた『デヴィッド・フィンチャー マインドゲーム』
待ちに待ったデヴィッド・フィンチャー──話題になったミュージックビデオやCMを数々手掛けた後、『エイリアン3』〜リドリー・スコット監督(これまた話題になったミュージックビデオやCMを数々手掛けた)からはじまった人気シリーズの3作目〜のメガフォンをとり、以来『セブン』、『ファイト・クラブ』、『ゾディアック』などを監督した──の評論本『デヴィッド・フィンチャー マインドゲーム』──本格的な彼の評論本はおそらく本著が初かも?──が発売(2,000部限定)され、購入いたしました。
『エイリアン3』からデヴィッド・フィンチャーのファンである私は期待に胸踊らせてページを開けたのですが・・・・・・。
基本的にこのブログでは取り上げるものに対してネガティブなことは書かないようにしていて、たとえ文句じみたことを書いたとしても愛をもって書くように心がけています。しかしッ! 今回は「これはないでしょ」と感じたガッカリ体験を述べさせていただきたいと思います。
その前に、本の制作に携わった方々の多大なる尽力には敬意を表します。しかしながら世に出された作品は常識的な範囲で批評・批判に晒されることを前提とされているとご理解いただきたい。どうぞ、ご容赦くださいませ。
何をそんなに鼻息を荒くしているのかと申しますと、原因の大半は、訳の不満です。とにかく読みづらい! 決してむずかしい語句が並べられているわけではないのですが、とにかく読みづらく、内容が頭に入ってこないんです。
大きな要因は、この投稿の出だしの文章のように、本文中に挿入される文が多いこと。少しばかり誇張して書きましたが、本物も大して変わらず本文を読みはじめるとすぐに「──かくがくしかじか──」、「(かくがくしかじか)」と挿入文が尋常じゃないほど入り、そのたびに視線の流れが遮られて集中できないんです。ひろゆきさんに言わせれば「それってあなたの感想ですよね」で済まされることかもしれませんが、同じように感じた人は少なくないんじゃないでしょうか。余談ですが、人の感想・感覚が軽んじられる風潮は、かなり危ないと感じています。(これも単なる感想ですが)
話をもとに戻しまして、私は原文を見ていないのでわかりませんが、「挿入文が多いのは原文がそうだから」という事情があるのかもしれません。しかし、たとえそうであっても日本語に訳して読みづらいのであれば、原文の意図やニュアンスを崩さない範囲で読みやすくするトーン・マナーを考えるべき。
訳された日本語をちょっと読んだだけでも、「このフレーズをここにもってきて、こことつなげるだけで読みやすくなるのでは」というところがたくさんあります。
この読みにくさ、どこかで経験したことがあるような気がして、訳者を確認したところ、いやな予感が的中。『クリストファー・ノーランの嘘/思想で読む映画論』と同じ人ではありませんか。
実はこの本も楽しみにしていて発売後すぐに購入したのですが、『デヴィッド・フィンチャー マインドゲーム』とまったく同じく、挿入文の多さと訳文のぎこちなさに蕁麻疹が出そうになり、本としては高価ながら泣く泣く古本屋さんに売ったかなしい過去があります。
この時は一瞬、心理学について書かれたところも少なからずあるのでとっつきにくいのかなと思ったものの、「いやいや、訳が原因だわ」という結論に至った次第です。ふたつの本の著者は別人で、読みにくさがまったく同じということは、やはり訳者のクセが原因であることは間違いないでしょう。
今回の購入にあたり、「あの時の訳者だったらどうしよう」という不安がなかったわけではありません。しかし「まさかそんなことはないだろう」と楽観視して、事前にチェックするのを怠ってしまいました。そういう意味では、今回の不満の原因は僕にあります。が、それでもやはり、もうちょっと読みやすさに留意してほしかったですね。
不満に感じたことは、この他にもふたつあります。ひとつは紙質。もう少し良い紙を使っていただけませんかね。本のサイズがそこそこ大きく、ページ数も多ので、フニャフニャになってしまいますやん!
もうひとつは、背表紙のタイトルデザイン。何の創意もないフォントを無造作に使って、カタカナで『デヴィッド・フィンチャー マインドゲーム』はないでしょ。オモテ表紙のデザインとのギャップが大き過ぎです。5,000円近くもして、2,000部限定と打ち出すのなら、ひとつひとつのディテールに気を配っていただきたかった。発売元のディスクユニオンさん、お願いしますッ!
さて、これから心を整えて負の感情を薄め、楽しく続きを読みたいと思います。
追悼 ジェフ・ベック
毎年のことですが、秋から年の瀬にかけて仕事に追われ、すっかり更新せず放置状態になっておりました。ちょっとサボると、すぐにそれが当たり前の状態になる。習慣というのは怖いものです。今年はもう少しがんばって更新したいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
さて、ジェフ・ベックが亡くなったという大変残念な知らせがありました。
僕は今も新譜を追いかけている熱心なファンというわけではありませんが、10代の頃にはじめて彼のギタープレーに出会って衝撃を受けて以来、定期的にラックからレコードを引っ張り出して聴いています。何やいうてもフェイバリットギタリストの一人です。
日本ではヤードバーズに在籍していたエリック・クラプトン、ジミー・ペイジと並んで3大ギタリストとして崇められてきたのはご存知の通り。この3人を往年のプロレスラーに例えると(例える必要はまったくないのですが)、僕の中ではクラプトン=馬場、ベック=猪木、ペイジ=鶴田。
ベックと猪木に共通するのは、革新者であり、探求者であること。常識や既成概念にとらわれることなくチャレンジしつづけ、新たな可能性を広げる。プレー自体はもちろんのこと、そういう姿勢がカッコ良かった。
新日プロレスのテレビ放送で彼の曲が使われていたことにも、偶然といえないつながりを感じます。
そして、亡くなるまでバリバリの現役だったこともジェフ・ベックらしい。
ある程度キャリアを積むと自分のプレースタイルを守りつづけるような老舗化するギタリストが多い中、彼はずっと新しいプレースタイルやサウンドを探求していました。きっと「誰も聴いたことのないプレーをおみまいしてやるぜ!」と思っていたのでしょう。ある意味、生涯ギター少年を貫いたといえます。
初期のプレーもブッ飛んだ超人レベルですが、ピックをやめて指弾きに変えてからはまさに“超”超人の域に。どんなふうにしたらこんなフレーズや音を弾けるのか、想像できない。というか、ライヴの映像を観てもよくわかりません。わかるのは、本人が楽しそうに弾いていることだけ。
彼が凄いのは、テクニックだけでなく、表現力が半端でなかったこと。彼のプレーや作品はこれからも色褪せることはないでしょう。
個人的には、『ワイヤード』、『ゼア・アンド・バック』、『ギターショップ』がお気に入り。世紀が変わってから出た『ユー・ハッド・イット・カミング』も、ベック流デジロックといった感じのヘビーな音に驚いたものです。発売当時55歳オーバーだったことにもビックリ。彼こそギターヒーローという言葉がいちばん似合うギタリストだったんじゃなんいでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。
素晴らしい特集、ありがとう
こんな本を待っていました! というか、自分で作りたいと思っていたくらい。『BRUTUS〜棚は、生きざま』、「やられた」というジェラシーを多少感じながらも、「ありがとう!」とお礼の言葉で漏れ出るドンピシャな企画です。
僕は、「棚はその人の頭の中を投影する小宇宙」だと思っている、結構な棚好きです。人によって違うと思いますが、僕の場合、収納好きとは違うニュアンスでとらえています。収納好きはお片付けを目的としいて合理性を重視するのに対して、棚好きは限られたスペースの中で世界観をつくることに重きを置く感じでしょうか。
うちには壁一面の本棚が1階のリビングと2階の書斎に鎮座されているのをはじめ、さまざまな棚があり、惚れた本や置物を自分なりのイメージに沿って並べているわけですが、そんなところにメイク落とし用の綿の箱なんかを置かれると台無しになるのでぜひともやめていただきたい。
ついつい愚痴が出てしまいました・・・・。で、今回の『BRUTUS』はテーマが良いだけでなく、内容も見応え充分の出来栄えでした。紹介されているのは“ものづくり”に関わる人が大半だったものの、人によって棚の中身はもちろんのこと、入れ方や飾り方、棚に対する考え方も違うことが伝わってきて、メチャおもしろい。まさに「その人の頭の中を投影する小宇宙」じゃありませんか!
あまりに整然としていると息が詰まるし、完全なカオスだとフラストレーションが溜まる。個人的には、ものがいっぱい置かれていて、基本的には整理されていながらも、ちょいバラついているくらいが好みです。なので自宅の本棚に関しては、著者別に揃えるのではなく、自分なりのテーマでまとめ、タテヨコいろいろな向きで置いています。一方レコードとCDの棚は取り出しやすさ重視で、アーティスト別・ジャンル別に。
こんな感じでプライベートではまあまあこだわりがあるのですが、仕事となるとまったく逆で、事務所の棚は雑然としていて、どうにかしようという気もありません。自分でも不思議です。
あっ、一応念のためにいっておきますが、決して仕事を粗末にしているというわけではございませんので、お仕事関係の方々、どうぞよろしくお願いいたします。
最近の読書事情
自分が老眼になっていると気づいたのは、今から約15年前。まだ小さかった子どもの足の爪を切ろうとしたら、いまいちピントが合わったにもかかわらず、安全爪切りということで攻めの姿勢で押し通したところ、横っちょの身もちょこっと削ってしまったのがはじまりです。
この時は疲れ目と思っていたのですが、次第に対象物から離れれば離れるほどピントが合うという怪現象に気づき、つれ合いに話したところ老眼であることが発覚しました。それから老眼は加速度的に進行しつづけ、今ではスマホを見る際にピントを合わすためには、自分の腕の長さでは足りないほどです。同じ「LOGAN(老眼の人)」ならおわかりいただけると思いますが、これ、冗談ヌキで本当です。
老眼は日常生活のあらゆる面に影響を及ぼし、特に読書はモロです。僕は外ではグラデーションタイプの遠近両用メガネを使っているのですが、家では古い近眼用メガネを使っているため、小さな字が見えんのです。文庫本は「目が疲れてしゃぁないな」という感じで、CDに付いているライナーノーツになると、ゴマ粒が並べられているようにしか見えません。
(まったく関係ない話ですが、この前、素でメガネのことを「アイウェア」と言う人に出会いました)
そんなワケでここ数年、読書量はめきめき減っています。ここで開き直ると知識のインプットが減り、感覚的な加齢も進んでしまうので、最近は意識して本を読む時間をつくるようにしています。
そのなかで印象深かったのが、『思いがけず利他』(西島岳志)と、『自転車泥棒』(呉明益)。
『思いがけず利他』は、近代日本政治思想を専攻する大学教授が、「利他とは何か」について紐解いてくれる指南書。ここ数年感じていた世の中に対する違和感や居心地の悪さの“もと”がわかりやすく書かれていて、思わず膝を打ちました。何の前知識もなく、タイトルと表紙のイラスト(丹野杏香)に惹かれて購入したのですが、当りでした。
『自転車泥棒』も書店で偶然見つけた、台湾の作家による小説。映画の名作と同じタイトルということで手に取り、出だしを読んだところ、瞬殺されました。シンプルな言葉しか使われていないのに、イメージがどんどん広がるんです。このあたりは、天野健太郎さん訳も大きく貢献しているんじゃないでしょうか。
お話はいくつかの時間軸がまじりながら進み、ノスタルジックかつ幻想的な雰囲気があふれていて、村上春樹さんを思い浮かべる一面も。かなりおもしろかったです。この作家の作品は他にもいくつか翻訳されているので、筋金入りのLOGANになる前に読みたいと思っています。
まぁ、家用のメガネを買い換えれば問題解決する話なんですけど。
『ウマ娘』に戦慄
『ウマ娘 プリティーダービー』、ヤバくないですか?
ちなみに僕は『ウマ娘』について、スマホなどのゲーム、あるいはアニメ作品であるという以外何も知りません。もちろんプレイしたことも鑑賞したこともありません。ただ、夜中に放送していたテレビ番組の紹介コーナーで“いかにも”な造形の、ウマの耳をした女のコたちが、絶妙な前傾姿勢で競馬場のコースを一心不乱に走っている絵面を見た瞬間、「ヤバいものを見てしまった」と直感的に感じたのです。
それは、画期的なモノが出てきたという驚きでも、斜め上からの冷やかしでもありません。僕にはそんな視点でとらえるほど知識ありませんから。ただ、ウマをアニメチックな女のコに擬人化し、そのキャラたちを競馬場(場所は他の設定に置き換えないのが異様さを強調させています)で走らせる世界観に頭がクラクラしたのです。
水と油のモノが出会い、イメージがスパークする。それは、マルセル・デュシャンがモナリザにヒゲを付け足した作品「L.H.O.O.Q」をはじめ、美術の世界ではしばしば用いられてきた手法ですが、一般大衆を対象にしたエンターテイメントで用いられ、ヒットしているところがスゴいなと。
いや、あの絵面にはそんな理屈や制作者の思惑を飛び越えた何かがある気がしてなりません。人の力ではコントロールできない次元のモノが奥底でとぐろを巻いている、くらいに思っています。
もしかしたら、ヒトがアウストラロピテクス、ホモ・エレクトス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンスと進化してきたように、今まさに進化の分かれ目に来ているのかもしれません。
もちろん、何の違和感も感じることなく『ウマ娘』を楽しめているヒトが、次の段階へ進化する新人類。僕のように慄いている種類のヒトは、1万年後には適当な名前をつけられて旧人のカテゴリーに入れられているんじゃないでしょうか。
まあ、1万年後の話やったらそれでも全然いいです。
今度のバットマンは金田一耕助だ!
(内容にふれるのでご注意ください)
やっとこさ映画の劇場公開がいつも通りに戻りつつあるこの頃。気になる作品も結構あり、ちょこちょこ劇場に足を運んでいます。かねてから話題になっていた『ザ・バットマン』もそのひとつ。ティム・バートン版から数えて何回目の仕切り直しか分からなくなるくらい“こすりまくり”のネタですが、新作が公開されるとついつい観てしまうんですよね。
というワケで行ってきました。正直なところ、バットマンのシリアス路線といいますか、中2病お悩み路線は『ダークナイト』でお腹いっぱいになっており、『ダークナイト ライジング』の煮えきらず、やっと動いたと思ったら開き直った態度のブルース・ウェインにイライラ。『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』ではスーパーマンとのしんきくさい揉め事につき合わされ、「何をワケのわからんこと言うとるねん?!」と、どうでもよくなってしまいました。
今からすると、公開当時は暗いと批判されていたティム・バートン版の何とヌケの良いこと!
そんなこともあり、今回の『ザ・バットマン』の予告を観た時も「またお悩み路線じゃないの・・・・」と不安を感じておりました。が、幸いこっちの予想を“ある程度”は裏切ってくれました。まぁ今回も悩みはするのですが、それほどウジウジせず行動に移してくれるので、観ている方はノリやすい。最近のバットマンになかった小気味よいテンポが戻ってきたのはうれしい限りです。
僕の観終わった直後の感想は、“ダイ・ハード3 meets 金田一”。犯人になぞなぞを出題されて相棒と街中を駆けずり回るという設定が、『ダイ・ハード3』と同じという指摘は多くの人がしていますが、それと同じくらい市川崑の金田一耕助シリーズに似ています。
ざっと思いつくだけでも、暗くおどろおどろしいムード、犯人のケレン味あふれる犯行手口、登場人物たちが「よおし、わかったぁ〜!」と言いながら犯人のトラップに引っかかりまくるところ、事件のカギが過去の出来事や家族に関連していること、結局のところ事件解決に役立っていない主人公のボンクラ感などなど。おまけに話の展開や人間関係が込み入ってくると、わかりやすいように相関図を書いてくれる親切設計まで同じ。冗談抜きで脚本を担当したマット・リーブス(監督兼任)とピーター・クレイグは金田一シリーズを観たことあるんじゃないでしょうか。
また、善人面した著名人の悪事を晒しまくる敵役のリドラーは、“史上最狂の知能犯”というより、“度が過ぎたガーシーの模倣犯”といった方がしっくりくる感じです。
一見、クリストファー・ノーラン版のシリアス〜お悩み路線を引き継いでいるように見せながら、キュートさやオフビートなユーモアを散りばめているところが、この作品の大きな魅力であるのは間違いないでしょう。
バットマンが蒼くさいユルさを残しているのもそのひとつ。今回のブルース・ウェインはバットマン歴2年という設定でしたが、にしてはあまりにも悪党の言うことを鵜呑みにして右往左往し、ゴードンに「しっかりしろ!」と叱られるのが何とも微笑ましい。挙げ句には、あまりになぞなぞが解けないため、リドラーに素で呆れられる始末。最後の問題も近くに警官がいなければ解けていなかったじゃないの!
これは貶しているのではありません。褒めているのです。D.I.Y.感満載のマスクや、ハイテクになり過ぎない武器の性能具合もふくめ、未完成感がステキです。
久々にゴッサムシティが存在感を放っていたのも良かった。街そのものがモンスターであることを視覚的に表現した撮影のグリーグ・フレイザー、美術のジェームズ・チンランド、グッジョブです。
そして、バットマンがジタバタ動いたものの、リドラーの企みを何ひとつ防げなかったことに気づき、利他的な行動をとる姿は最近のダークヒーローものにはなかった納得感がありました。おそらくそれは、バットマンが自分の力を越えた巨大な何かを痛切し、目の前にいる人を救うというヒーローとしての宿命を背負ったことが、映像として描かれていたからなのでしょう。
次作につづく種もいろいろ蒔かれているので、これからもバットマンとのおつき合いはつづきそうです。
「みうらじゅん マイ遺品展」で心が洗われる
仕事がひと山越え、心に余裕ができたので、前から行きたかった「みうらじゅん マイ遺品展」に行ってまいりました。
そして、“心の師”と仰ぐジェダイマスターに、途方もない遺品を通じて「お前、日和ってるんじゃないか?!」とご指導いただきました。
マスターみうらのおっしゃる通り、僕は一時期、世の中を駆け巡った「断捨離」という言葉に惑わされ、ダークサイドに堕ちそうになっておりました。
「こんな物持っていても死ぬまで見ないだろう」
「これを手元に置いておくのはちょっと恥ずかしい」
「そもそも何の役に立つのか?」
そういう邪念が頭をもたげ、コレクションの一部を処分したのも一度や二度ではありません。いや、今も自宅のスペース的な問題で、日々葛藤している状態です。
マスターみうらは、そんなグラつく僕の心を見透かして、ひとつでは意味を成さない物でも、切り口と数によって意味(価値)が生まれること、“集める”という行為自体が尊いことを教えてくださったのです。そう、「物を集めてきた軌跡こそ人生なり」と。
みなさんもご存知の通り、マスターみうらは世界の片隅に埋もれている“一瞬違和感を感じるけど、すぐに意識の外側に追いやってしまう物”を拾い上げます。そして名前をつけて物量戦法を展開することで意味を生み出します。それは得体のしれない宇宙といえるでしょう。最近はじめられたという「コスプ(コロナ渦スクラップ)」は、カオス過ぎて頭の中がネジ曲がる快感をおぼえました。
しかもマスターみうら(この言い方、そろそろ鬱陶しくなってきたでしょうか?)は、ひとつひとつのテーマが濃い上に、そうしたテーマが無数にある状態。宇宙で例えるから、太陽系みたいなものがいくつも集まって巨大な銀河系を構成しているようなもの。
そしてマスターみうらは、こうした収集を“好き”という初期衝動で行っているのではなく、正体不明の使命感によって行い、最後には“好き”という境地に至る、“行”になっているところにホンモノの凄みを感じます。
僕もマスターの教えに従い、「断捨離」というダークサイドに堕ちることなく、ジェダイ騎士の誇りをもって物集めに邁進する所存です。
ジョン・カーペンター降臨
ついこの前まで“ホラー映画の帝王”、いや“映画界のD.I.Y.大将”ことジョン・カーペンターの名作を上映する、『ジョン・カーペンター レトロスペクティブ2022』が開催されておりました。今回上映作されたのは、『ニューヨーク1997』、『ザ・フォッグ』、『ゼイリブ』の3本。
サイコー!やないですかッ!! 年のはじまりを漢の魅力あふれるスネークと過ごせるなんて。
残念ながら僕は仕事が忙しくてスルーするしかなく、ハンケチをギリギリ噛んでいたところ、とんでもなくイカすパンフレットが発売されていることを知り、すぐさまゲット。
なんと、VHSのパッケージに見立てた仕様になっているではありませんか。これは、単に公開された時代がビデオ最盛期だったということだけでなく、“ビデオ”というどこか手作り感とキッチュ感漂うメディアと、D.I.Y.精神あふれるカーペンターの特性との親和性を考えてのことでしょう。
キッチュ感に関しては、彼の作品のどこを切っても漏れ出てきますが、その中でも特に『ゼイリブ』での、まるで延びきったうどんのように弛緩したケンカシーンは特筆に値します。(ケンカの結末自体もヌルっと終わります)
このシーンを最後まで見届けられるかどうかで、カーペンター作品のトリコになるか、今後一切スルーするかが決まるのではないでしょうか。今のコマ落としをしたスピーディーなアクションシーンに馴染んだ若い人が、どう感じるのかすごく興味があります。
話をパンフレットに戻すと、魅力はほぼほぼ外身。
ちなみに中身は、ポストカード16枚と、黒沢清監督をはじめとするカーペンターファン5人の文章。特に文章は5人合わせてペラ紙1枚。読みはじめたら終わってしまうボリュームで残念。ポストカードも、もう一捻りしたものにしてほしかった・・・・。でもまぁ、ここ最近ではいちばん心がざわついたアイテムです。