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2013年01月16日

事故アピールをしないために

130116.jpg思春期の病のひとつに、度が過ぎた自己アピールがあります。自分の存在を認めてほしいというオレ汁が放射され、内容の大半は自分がどれだけ人と違う存在であるかというファンタジーだったりします。しかしそれは人が成長する上で必要な「恥ずかし体験」。歳を重ね、いろいろなことを経験する中で「恥ずかし体験」をもとにオレ汁の放射方法は調整され、さらに歳を重ねると(仕事はまぁ別にして)人と違うかどうかは自分の人生を生きる上でさほど意味がないことを知ります。
ところが最近はいい歳になってもまだ過剰な自己アピールをする人が多いように感じます。二十歳そこらなら可愛げがありますが、30を過ぎて酔ってもいないのにそれをされると「熱い」とかではなく単純にうっとうしい。僕はいい大人の一方的なアピールを「事故アピール」と呼んでいます。

以前、フリーミュージックのパイオニアであるジョン・ゾーンが、ある年齢までは奇抜なアイデアや高度なテクニックをアピールすることにも意味はあるけれど、それ以降はそれらで得たことを肥にして何かを表現することが大切と言っているのを見たことがあります。散々キテレツなことをやってきた人だけに説得力があります。
そんな彼の言葉をジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』を読んで思い出しました。初期の代表作である『フローベルの鸚鵡』や『10 1/2章で書かれた世界の歴史』は斬新な切り口や構成で、小説の枠を広げることにチャレンジしているようにも思える作品でしたが、60代になって書かれた本作は派手な仕掛けはないものの、今まで培ったものが確実に息づいているコクのある作品に仕上がっています。
静かに引退生活を送る平凡な男が学生時代の親友の日記があることを知らされたことがきっかけで過去を振り返り、だんだん自分の記憶にある過去が揺らぎはじめるというストーリーで、「自分」という存在がいかに不確かであるかが語られています。
このようにありがちな内容をしたことにも彼の自信がうかがえる。たぶん彼はアクセサリー的な斬新さを見せつけることより、自分の内にあるものを小説で表現することに関心が移っていったのでしよう。そういう意味で『終わりの感覚』は、作家が「事故アピール」を回避した好例ともいえるでしょう。
ジュリアン・バーンズといい、スティーヴン・ミルハウザーといい、いい意味で円熟してますね。これからが楽しみです。

posted by ichio : 23:17 | | trackback (0) |