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2013年11月12日

どこにフォーカスをあてるか

131112.jpg電車に乗っていた時のこと。吊り革を持ち、心地良くゆられていると、おっさんの乾いた声が鼓膜を突いてきました。声のボリューム、語気からして明らかに一線を超えた‘あっち側の人’です。ものごっつ声の主を確認したい思いにかられましたが、一応僕も大人です。ニヤついた顔をご本人に晒すようなことはできません。知らんふりをして、耳をそばだてるのが大人のマナー。
しかし、おっさんはそんな僕の気遣いを完全に無視して、独り言をヒートアップさせるではありませんか。
何を言っているのか知りたいのですが、六代目 笑福亭松鶴のような口調のため、はっきりと聞き取れない。ふと、近くに立つ男性に目をやると、彼はおっさんをガッツリ見ていて、今にも吹き出しそうな顔をしています。もう我慢できない。振り返りおっさんを見ると、意外にまとも。
‘ちょっと変わった人’レベルかとガッカリして、iPodのヘッドフォンを耳に突っ込もうとしたその時、おっさんが窓に映った自分に話しかけていることに気づいたんです。
そうと分かった瞬間、今まで聞き取れなかった言葉がスーッと入ってきて、おっさんは独り言を言っているのではなく、もう一人の自分と会話をしていることが分かりました。しかも、声色や口調も微妙に変えていて、そこら辺の落語家よりも臨場感がある。見ようによっては、芸に取り憑かれた人にも見えないこともない。
でも、話の内容は、遠い親戚の娘がブサイクというつまらんもので、おっさんへの興味もなくしてしまいました。

この話で何が言いたいのかと申しますと、意識のフォーカスのあて方についてです。今回のケースでは、おっさんがフレームの外にいた時は‘単なる変なおっさん’で、ファインターをのぞいた時は‘おもろそうなおっさん’ に変わり、ピントを絞るにつれキテレツ度を増し、最後は興味をなくして再び風景になったワケで、同じものを見ていても、どこにフォーカスをあてるかで意味が違ってくる。
そんな当たり前のことを改めて実感し、僕は『ロボコップ』(オリジナル版)を思い出しました。「まさに、おっさんと同じではないか」と。
この作品は、殉職した警官がロボットとして蘇り、悪いヤツらをやっつけるという、実にバカバカしい作品です。かなりヒットしたので、ご存知の方も多いでしょう。
一般的なイメージは、‘ハリウッドのベタなヒーローもの’といったところではないでしょうか。正解です。しかもロボコップのルックスは洗練とはほど遠く、脚本もザ・ハリウッドな内容で、かなり残念なクオリティです。
しかし、もう少しピントを絞ると、無駄にスプラッターシーンが多い、なかなかスゴい人体破壊ムービーであることが分かります。主人公があそこまでコテンパンにやられるところを撮る必要はないし、病院に運ばれるシーンも傷口メインのアングルになっていて不自然。そして、極めつけはクライマックスでの悪党グループの死に様。くわしくは書きませんが、今まで見たことのないエグさとアホらしさがドッキングしています。
さらにピントを絞ると、監督のポール・バーホーベンが浮かび上がってきます。そう、この監督は『ロボコップ』の後に、『トータル・リコール』『氷の微笑』『ショーガール』『スターシップ・トゥルーパーズ』『インビジブル』といった、ハリウッド史上悪名高い、いや誉れ高い珍品を世に送り出した異才。要するに『ロボコップ』の無駄なスプラッターも、わざと。しかも、いかにもハリウッド的なヒーローものでこんなことをするからタチが悪い。ちなみに脚本を担当したエドワード・ニューマイヤーとマイケル・マイヤーは、『ロボコップ』の後もバーホーベンと組んでいるので、この人たちも確信犯です。
あたり障りのない映画ばかりの今日この頃、彼らのような毒を持った人が出て来きてほしいものです。
こんなふうに書くと何だか『ロボコップ』が深イ〜感じに思えるかもしれませんが、完全なおバカ映画です。

posted by ichio : 23:56 | | trackback (0) |