「みうらじゅん マイ遺品展」で心が洗われる
仕事がひと山越え、心に余裕ができたので、前から行きたかった「みうらじゅん マイ遺品展」に行ってまいりました。
そして、“心の師”と仰ぐジェダイマスターに、途方もない遺品を通じて「お前、日和ってるんじゃないか?!」とご指導いただきました。
マスターみうらのおっしゃる通り、僕は一時期、世の中を駆け巡った「断捨離」という言葉に惑わされ、ダークサイドに堕ちそうになっておりました。
「こんな物持っていても死ぬまで見ないだろう」
「これを手元に置いておくのはちょっと恥ずかしい」
「そもそも何の役に立つのか?」
そういう邪念が頭をもたげ、コレクションの一部を処分したのも一度や二度ではありません。いや、今も自宅のスペース的な問題で、日々葛藤している状態です。
マスターみうらは、そんなグラつく僕の心を見透かして、ひとつでは意味を成さない物でも、切り口と数によって意味(価値)が生まれること、“集める”という行為自体が尊いことを教えてくださったのです。そう、「物を集めてきた軌跡こそ人生なり」と。
みなさんもご存知の通り、マスターみうらは世界の片隅に埋もれている“一瞬違和感を感じるけど、すぐに意識の外側に追いやってしまう物”を拾い上げます。そして名前をつけて物量戦法を展開することで意味を生み出します。それは得体のしれない宇宙といえるでしょう。最近はじめられたという「コスプ(コロナ渦スクラップ)」は、カオス過ぎて頭の中がネジ曲がる快感をおぼえました。
しかもマスターみうら(この言い方、そろそろ鬱陶しくなってきたでしょうか?)は、ひとつひとつのテーマが濃い上に、そうしたテーマが無数にある状態。宇宙で例えるから、太陽系みたいなものがいくつも集まって巨大な銀河系を構成しているようなもの。
そしてマスターみうらは、こうした収集を“好き”という初期衝動で行っているのではなく、正体不明の使命感によって行い、最後には“好き”という境地に至る、“行”になっているところにホンモノの凄みを感じます。
僕もマスターの教えに従い、「断捨離」というダークサイドに堕ちることなく、ジェダイ騎士の誇りをもって物集めに邁進する所存です。
御陣乗太鼓
YouTubeの画面の横っちょに表示される“暇してるあんたへのオススメ動画”に、日々まんまと釣られています。ほとんどはこれまだ見た動画と関連したものがピックアップされますが、時々「何でこんなんすすめてくるの?」という代物にお目にかかることがあります。
今回取り上げる御陣乗太鼓もそのひとつ。何気に見たところ、これがとんでもなくイカしていて、関連動画を見てまわるように。おかげで僕のYouTube画面の右横は、御陣乗太鼓だらけになっています。
オフィシャルサイトによると、御陣乗太鼓の由来は約450年前に遡るとのこと。天下統一を目指す上杉謙信が能登に攻め入り、その軍勢は名舟村という小さな村落にも押し寄せてきました。迎え討つといっても名舟村の村人たちは武器らしい武器を持っておらず、映画『300』以上に勝ち目のない状態。そこでやけくそ気味に、樹の皮と海藻でつくったお面を被って太鼓を打ち鳴らしながら夜襲をかけたところ、上杉軍は驚き、慌てふためき、戦わずして退散したそうです。
確かに僕もこんな集団に出くわしたらビビリますが(大人になってからお化け屋敷で腰を抜かしそうになった経験あり)、それにしても上杉軍、浮足立ち過ぎでしょ。天下統一できなかったのも納得です。
一方村人たちはこの出来事を奥津姫神の御神徳によるものとし、毎年、奥津姫神の大祭で太鼓を打って氏神に感謝を捧げるようになったといいます。
パフォーマンスは、夜叉や幽霊、達磨、爺などが入れ代わり立ち代わり、ひとつの太鼓を打ち鳴らすのが基本スタイル。伝統的な和太鼓というと敷居が高いイメージがありますが、御陣乗太鼓はある意味すごくポップで、すんなり入ってきます。特にロックリスナーは好きなんじゃないでしょうか。
まず、グラムロックのようにビジュアルにケレン味があり、いきなり心を鷲掴みにされます。そしてサウンドは、ベース部分を担当する打ち手がポリリズム的なリズムを刻み、その上に他の打ち手がさまざまなフレーズをブチ込んでいきます。打ち手によって多少テイストは異なるものの、すべてパワープレイ。それを大人数編成ではなく、マックス5、6人の少人数で演奏するところもロック的。
また、太鼓の演奏中によくある「セイヤッ!」という勇ましい合いの手ではなく、「ぐわぁ〜」という雄叫びや、「ぐへぇ〜ぐへぇ〜」という唸り声をあげるところも、異形感があってカッコいい。
個人的には、ノイバウテンの『Kollaps』や、ナイン・インチ・ネイルズ『Fixed』に通じるトンデモ感をおぼえました。
御陣乗太鼓は石川県指定無形文化財、輪島市指定無形文化財に指定されており、保存会の方々も精力的に活動されているようですが、保護育成の助成がほとんどなく、活動は縮小傾向にあるとのこと。自治体だけの支援となるときびしいと思うので、何とか国がこういう伝統芸能の保存に取り組んでほしいと思うのですが、むずかしいのでしょうか。日本文化の素晴らしさを謳った・・・・のに、パフォーマーの方々は誰一人得しなかった、“あの”オリンピック開閉会式に驚愕の予算を投入できるのですから、どうぞよろしくお願いいたします。
「潤 沢」〜たかっしにリスペクト
TBSで放送中のドラマ『俺の家の話』がおもしろい。
キャストは長瀬智也、戸田恵梨香、西田敏行といった面々で、脚本は宮藤官九郎。
あらすじはスッ飛ばし、今回は第6話に登場した阿部サダヲ演じるムード歌謡グループ「潤 沢」のリーダー、たかっしが素晴らし過ぎる話をしたいと思います。
たかっし率いる潤 沢は、全国のスーパー銭湯やリゾート施設でおばさま(姫)を相手にした歌謡ショーを行うグループ。まぁ、純烈のパロディというか、そのまんまです。設定では、“純烈が行かない銭湯を狙ってステージを行うグループ”とのこと。
ショーでたかっしはハッピー&ブルーのヒット曲「星降る街角」のカバー「星降る街角2021」をイカした腰つきで歌うのですが、曲の合間に入れる合いの手がアホらし過ぎてサイコーなんです。ドラマの中でも、最初は余りのくだらなさに失笑していた主人公家族が、次第にたかっしが放つ摩訶不思議なグルーヴに巻き込まれトランス状態に。
つづいて繰り出されるのが、たかっしが“なかにし札(礼ではなく札)”というペンネームで作詞した新曲「秘すれば花」。作曲は筒美洋平。ちなみにモデルとなっている、なかにし礼&筒美京平のタッグはTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」をつくっています
「秘すれば花」は詞もメロディも使い古されたフレーズだけで出来ているのですが、たかっしにとってそんなことは承知の上。従来のムード歌謡を解体・再構築し、相対化しているのです。
音楽番組を見ると、ダルそうな雰囲気を醸し出すロックグループのメンバーが、自分たちのオリジナル性についてドヤ顔で語りながら、「走りつづけろ真夜中のハイウェイ、踊りつづけろオールナイトロング」的な歌詞を歌いだしてコケそうになることありますよね。それに比べればたかっしの方がはるかにクールです。まぁ、こうしたロックグループも、たかっし的なアプローチをとっているととれなくもありませんが。
さらにソウルクエリアンズのようにメンバーを固定せずフレキシブルに活動する姿勢や、メンバーの顔をプリントしたフェイスガードの販売などマーチャンダイズに力を入れているところも極めて今日的。
そして何より、C調なキャラとプロフェッショナルな顔を絶妙な塩梅でブレンドするバランス感覚に感服です。たかっしさん、リスペクトです!
イカす男たち
どうですか、この三人衆。
こんな出で立ちの人を近所で見かけたら、絶対にその日一日は「あの人は何物だ?」、「ていうか、限りなく宣教師に見えるけど、今の時代に宣教師っているの?」、「何でうちの近くを歩いている?」、「ヤバくないですか?」と、仕事が手につかなくなります。
でも、ご安心ください。本物の人間ではありません。人形です。
これは、大阪の堺で土産物として作られていた、「南蛮人形」といわれる土人形。名前と見た目のまんま、ポルトガル人の宣教師や船乗りなどを模しています。
とにかく、お三方の佇まいがイカし過ぎる。まず、おしゃれ。コントラストの利いた色合わせなのに、がんばってる感がない。絶妙な着くずしも板についている。そして、こんなにクセのある帽子をさり気なくかぶれるのは、おしゃれ上級者というだけでなく、かなりの曲者です。
そんな普通じゃない男がパイプをくわえて、何やら考え事をしている。世界の行く末を憂えているのか、それとも晩ごはんのおかずを野菜炒めにするか、レバニラ炒めにするか悩んでいるのか。そんなことを想像しながら、何時間でも眺めていられます。
以前、雑誌で南蛮人形を知って以来、欲しくてたまらなくなり、探しているのですが、なかなか出会いがありません。さっき“作られていた”と書いた通り、現在は作られていないんです。一時、地元にある『かん袋』という甘味処のご主人が趣味で復刻されていたそうですが、それも今はやめられたとのこと。
こうしたモノとの出会いはタイミング。気長に待ちます。
そういえば、仕事場までの道中にある古い喫茶店のショーウインドに、ポンチョとソンブレロを身につけ、膝を抱えている少年の人形が飾られていて、何年もの間イカすなぁと思いながら前を通っていました。お店の人に譲ってもらえないか、尋ねてみようかと考えたこともあるのですが、何だか失礼なような気がして我慢していたら、ある日忽然と姿を消したんです。
代わりに他の置物を置くわけでもなく、メキシコ少年がいた場所は空席のまま。何年もの間置いていたものを、いきなり強制撤去するとは考えにくいし、誰かにプレゼントしたと考えるのがいちばん自然。
たまたま前を通りかかった観光客が「カワイイ〜、これって売り物ですか?」と、白々しい&図々しい質問したところ、店の人は「人からもらったもんを置いてるだけですわ。なんやよう知らんけど、気に入ったんやったら持って帰らはったらよろしいわ」と、腰がくだけるような回答。
こんな会話が交わされたのかと思うと、横山たかし師匠のようにハンケチを噛みたくなります。
あの興奮が蘇る!
うわうわっ、こんなモノが発売されていたとは全然知らんかった!
2018年に誕生40周年を記念して、スペースインベーダーをはじめパックマンやギャラクシアンなど、昭和のゲームセンターを熱狂させた名作たちが、当時の姿を忠実に再現したアーケード仕様で復活!
40代〜50代のおっさんで、これを見て心ときめかない人はいないでしょう。もちろん僕もその一人。小学校中学年の頃にテレビゲームブームが巻き起こり、ゲームセンターはどこも超満員に。しかし当時のゲームセンターは「不良が集まるところ」「あぶないところ」というイメージが強く(実際間違いではありませんでしたが)、うぶっ子だった僕は、親と行く喫茶店や旅館のゲームセンターくらいしかプレイする機会はありませんでした。そして、大金だった100円玉を決死の覚悟で投入し、全身がゾワゾワする興奮を感じながらプレイしたものです。
それが高学年になるとだんだん調子にのってきて、友だちとビビリながらゲームセンターに行きだすようになり、中学生になるとほぼ毎日通いう始末。当然のことながら行く回数が増えると必要なお金も増えるワケで、そうなるとこれまた当然のことながら金欠に。
そこで僕の場合は、勝手に習い事をやめ、親には行っているふりをして月謝をゲーム代にしていました。これ、今考えると、自分でも引きます。40年前のこととはいえ、まだ直接親に謝る勇気はないので、この場を借りて謝罪したいと思います。本当にすみませんでした! これからは、もうしません!
ネットで復刻されたスペースインベーダーのレビューを見ると、概ね高評価。かなりマニアな人も満足するクオリティになっているようです。ただ、サイズは本物のアーケード仕様の3/4。高さも低くなっていて、立ってプレイするのが厳しいのが残念。
でも、やっぱりこのルックスはそそる。
僕は前から仕事場にガッツリ本物のピンボールゲームを置くのが憧れなのですが、この際スペースインベーダーでもいいかなと思っています。しかも値段が29800円(アマゾン価格)と、清水の舞台から飛び降りる気持ちになれば、買えてしまうのが嬉しいというか、怖いところです。
今の世の中にはベルガーが足りない
少しずつ社会が動きだした今日この頃。スポーツ界も未確定要素はありながらも、始動しはじめています。
F1は、3月に開幕戦のオーストラリアGPをドタキャン。その後すべてのチームのファクトリーが閉鎖され、ほぼ活動停止状態に。
しかし、多目的トイレで「その目的は考えてなかったわ」という、トリッキーな活用法を実践した芸人さんが袋叩きの目に遭っている間に、7月5日のオーストリアGPから開幕することが決定しました(残念ながら今年の日本GPは中止となってしまいましたが)。
まだまだ状況によってはどうなるかわかりませんが、ひとまずシーズンがはじまるのはファンとしては嬉しい限り。尽力されている方々に「ありがとう」です。
ところでここ最近、先の多目的トイレ芸人さんをはじめ、芸能人のスクープ&集中砲火が止まりません。
ほとんどが当人同士の問題で、関係のない他人にはどうでもいいことのように思うのですが、一部の人は騒ぎ立てないと気が済まない様子。昔なんて、パンツに大麻を隠すという、とびっきり多目的にパンツを活用した役者がいたくらいなのに。まぁ、これは当時でも大騒ぎになりましたけど・・・・。
「時代が変わった」「だってダメなことでしょ」「芸能人なんて人気商売」と言われたら「その通りでございます」という他ないのですが、窮屈すぎる気がしやしませんか。もうちょっとユルい世の中の方が生きやすく、楽しいように思うのですが。
こうした世の中の流れの影響か、F1ドライバーも今と昔では随分さま変わりしました。
昔はアウトロー的な人が多かったのに比べ、今は良くいえばスマートになった、率直にいうとビジネスマン化された。みんなチームやスポンサーに気をつかって、無茶なふるまいはしない。6度ワールドチャンピオンに輝き、見た目もライフスタイルも派手なハミルトンでさえ、キャラとしては薄い。だから、どんなに凄い走りをしても、それ以上にグッとくるものがないというか、感情移入できないんですよね。
このようにお利口さんが多くなり、「今のF1にはベルガーが必要だ」と、しみじみ思います。
F1に馴染みのない方に少しだけ紹介すると、ゲルハルト・ベルガーは80年代半から90年代にかけて、フェラーリやマクラーレンなどの名門チームで活躍したトップドライバー。しかしセナやプロストという超天才が全盛期をむかえていたこともあり、残念ながらタイトルを獲ることはできませんでした。が、記録ではセナプロには遠く及ばないものの、記憶の面ではまったく引けを取らず、今でも多くのファンに愛される存在。僕も30年F1を観つづけてきたなかで、トップ3に入るくらい好きなドライバーでした。
彼の魅力は、高速コーナーが滅法速い豪快なドライビングもさることながら、個性的なキャラクターが大半を占めていたといっても間違いはないでしょう。
とにかくお茶目で破天荒。スタッフや関係者へのいたずらは日常茶飯事。そればかりか、厳格な性格で知られるマクラーレンのドンであるロン・デニスをワニ園の池に突き落としたり、フェラーリのチーム代表だったジャン・トッド、チームメイトのジャン・アレジと車で移動中、いきなりサイドブレーキを引いて車を横転させたりするなどのヤンチャぶり。気難しくて、あまり人を寄せつけないセナにも容赦なし。セナのアタッシュケースをこっそり持ちだし、ヘリで上空から投げ捨てたというエピソードは有名。無茶苦茶を通り過ぎて、「ちょっと頭おかしいんじゃないの?」というレベルです。
また彼は色気のあるハンサムで、女性にモテモテ。ベルガー自身も女性が嫌いではなく、今なら一部の人から集中砲火を受けるようなことをしていたとしても、何ら不思議ではありません。
ドライビングに関してはハマると手がつけられないほど速いものの、波があってシーズン通して続かない。そして、まわりが呆然とするような考えられないミスをしでかすこともしばしば。けれど、「ここで勝ったらカッコ良すぎるやろ」というシチュエーションで勝ってしまう。このギャップがたまらん!のです。
そして情に厚く、おまけに頭脳明晰。だから、多くの人に好かれ、今ではモータスポーツ界で重要なポジションに就いているのも、これまた何ら不思議ではありません。
今、ベルガーのようなドライバーがいたら、やっぱり叩かれまくりなんでしょうか。違ったタイプでもいいので、クセの強いドライバーが増えて、サーキットを華やかにしてほしいものです。
それはエンターテインメントの世界も同じ。こじんまりまとまらず、ダイナミックで、華やかであってほしい。そのためには、観る側もちょっとくらいのことなら笑ってスルーする余裕があっていいんじゃないでしょうか。
建物がまとう魔力は人がつくる
秋口から続いていた忙しさも、年が明けてようやく落ち着いてきました。先日、仕事で高知に行った際も時間と気持ちに余裕があったため、泊まって観光を楽しむことができました。
真っ先に訪れたのは、「土佐の九龍城」、「日本のサグラダファミリア」といわれる沢田マンション(通称「沢マン」)。
沢田マンションは、専門的なスキルを持たない大家さん夫婦が自ら建てた、地上5階地下1階の鉄筋コンクリート建築物。つまり近年流行っているDIYの元祖であり究極型です。建物は、大家さんの直感(あるいは斜め上からの啓示)による自由過ぎる増築が繰り返されてきたため迷路状態に。しかも各部屋からにじみ出ている古参住人のオーラが凄い。一人で探索していると空間や時間の感覚だけでなく、こちらの価値観までねじ曲がっていくような感覚になります。
そんなアメージングな体験をして思い出したのが、『HOME Portraits Hakka』(中村治)という写真集。
どえらい存在感のある、おばあさんの顔の表紙を開いてまず引きつけられるのが、客家(はっか)という中国の移民が暮らす、福建土楼と呼ばれる集合住宅。外界を拒むようにそびえ立つ外壁をくぐると、何百年も前にタイムスリップしたような、それでいて単にレトロという言葉では片付けられない、こちらの感覚をねじ曲げる磁力をもった空間が広がっています。まさに沢田マンションの熟成版といった感じ。
しかし、ページをめくっていくと、この写真集の主役は建物ではなく、そこに住む人であることが分かります。ほとんどがおじいさん、おばあさんで、味わい深過ぎる顔をしている。みなさんレンズを見ているのに、その先のずっと遠くを見つめている感じなんです。その瞳には、その人のこれまでの人生だけでなく、土楼という閉ざされた空間で暮らしてきた人たちの生活や、脈々と続く生命のサイクルが映し出されているように感じます。
写真家の中村さんはあるインタビューで、建物を撮っても観光写真のようになってしまうため、そこで暮らし続けている人に焦点を当てることにしたと語っています。おそらく中村さんは客家の人たちの瞳を直視して、『2001年 宇宙の旅』のラストのようなトリップ感を体感したんじゃないでしょうか。
『HOME Portraits Hakka』に収められている写真は、すべて土壁に反射した黄色い光に覆われています。それはあとがきに記されている通り、魔術的な雰囲気を醸し出していて、まるで土楼の中の小さな世界が幻であるかのように思えてきます。
現在、福建土楼は世界遺産に登録されて観光地化が進み、多くの人は近くの現代的な家で暮らしているとのこと。中村さんが10年ぶりに訪れたところ、みなさんライフスタイルが変わって若返って見えたものの、撮影当時に感じた得体の知れない生命力は消えていたそうです。建物も住む人がいなくなるにつれ、磁力を失うでしょう。
そこでがんばってほしいのが、沢田マンション。福建土楼や九龍城、軍艦島を受け継ぐ“生きたラビリンス”として、歴史を重ねていってくれることを願います。
新しい時代の予感
おそらくほとんどの人にとっては、ちょっと前にヤン坊マー坊がデザインリニューアルされたことよりどうでもいいことだと思われるF1。(ちなみに新しく生まれ変わった8代目ヤン坊マー坊は、何とCG化されたデジヤン坊&デジマー坊に!)
話を戻すと、F1は自動車レース最高峰の世界選手権でありながら日本では数年前に地上波から姿を消し、日本人ドライバーも現れないことから、今や多くの人にとっては存在しないも同然の状態。いま思うと、「ガソリン撒き散らして同じところをグルグル回っているだけ」と嫌味を言ってもらえるだけでもありがたいことでした。F1の名誉のためにいっておくと、世界的にみればファン離れが危ぶまれるなかでも「世界三大スポーツイベント」のひとつとして、オリンピック、サッカーワールドカップに次ぐ三番目の席を、ラグビーワールドカップ、ツール・ド・フランスと争うくらいの人気とスケールを誇っています。
一見さんにとってはとっつきにくいF1ですが、だまされたと思って一度観てください。地上波では放送していないので、DAZNかスカパーに加入するか、現地に足を運ぶかしか方法はありませんが・・・。
そこまで推すのはワケがあります。それは今、若い世代が新しい時代をつくっていくターニングポイントを迎えているからです。
ここ10年はベッテルとハミルトンという(記録の面では)F1史上に名を残すドライバーが、前半後半5年ずつ支配する状態で、それぞれ圧倒的に強いマシンに乗っていたこともあり、正直退屈でした。しかしここ最近、大きな才能をもった若手が現れ、頭角を現しはじめているのです。
その筆頭が、「翼を授ける」でお馴染みのレッドブルに所属するマックス・フェルスタッペンと、今年名門フェラーリに電撃加入したシャルル・ルクレールという青年。どちらもまだ21歳! 普通なら「そろそろ本気で就活せなヤバいな」と焦りはじめている年齢です。
フェルスタッペンは並外れたスピードとドライビングテクニック、揺るぎない自信の持ち主で、どちらかというとヒール的な存在。こういうと語弊があるので、北の湖的な存在と改めます。一方ルクレールはどえらい才能に加え、日本人好みの甘いマスクも備えた千代の富士的なキャラクター。このキャラクターのコントラストがいいじゃありませんか。
しかもフェルスタッペンが乗るマシンのパワーユニット(エンジン)は、日本が世界に誇るHONDA製。
実はHONDAは2015年に華々しくF1に復帰したものの、浦島太郎状態になっていてなかなか現代F1の技術に対応できず、さらに当時タッグを組んでいたマクラーレンというチームが混迷期に陥っていたことも影響して、期待されていた結果を挙げられずにいました。しかし今年からレッドブルがパートナーとなり、優れたチーム力とフェルスタッペンという才能に助けられながら大躍進。まさにサクセスストーリーはこれからという状態なんです。
さらにフェルスタッペンとルクレールの他にも優秀な若手が出てきているので、ジャニーズJrを応援するように誰がブレイクするかチェックするのも楽しいでしょう。
フェルスタッペン、ルクレールを中心にしたこれからの時代をつくる若武者と、ハミルトン、ベッテルというこれまでの時代を背負ってきた強者が、来シーズン激突することになるのは間違いありません。しかもそれぞれが絶好のタイミングで。今なら間に合います。世界中から集まった天才ドライバー、ごっつ頭のいいデザイナーやエンジニアたちが繰り広げる熱いドラマを目撃しましょう!
旅先での出会い、本のカバー買い
去年の夏に家族で金沢を訪れた際、何気なく入った雑貨店のギャラリースペースで版画家のタダジュンさんの個展が開かれていました。作品はいろいろなところで見たことはあったのですが、作者の名前を知ったのは恥ずかしながらこの時がはじめて。
作品はどれもユーモアと毒っ気があって、すごくイカしてます。欲しい・・・・でも値段が・・・・・・・・。一人では決心がつかないので奥さんの様子をうかがったところ「いいやん」と許可をいただき、購入に向けてズズズンっ!と前進。しかし僕はCD1枚買うのに何ヶ月も思案する小心者です。OKが出たからといってすぐに何万もする大物を「これ、ください」と言えるワケがありません。想像しただけで喉がカラカラになってくる。さらに奥さんがOKを出したのは、自分も欲しいもの(それも版画と同等かそれ以上の大物!)をゲットするための策略じゃないかと、疑心暗鬼になる始末。
これはいかんということで、一度頭を冷やして冷静に判断するため、近くにある本屋さんへ。すると、その本屋さんにタダジュンさんの作品が飾られているではありませんか。お店の人に話しかけると、その方はタダジュンさんのファンで、少しずつコレクションしているのだとか。この話を聞いて、作品の魅力だけでなく、好きな作家の作品を所有して楽しむという行為にもウットリする。
これは“買い”だな。気合いを入れてギャラリーに再突入したのですが値札を前にしておじけづき、結局逃げて帰りました。
それから1年経ちますが、ちょこちょこその時のことを思い出し、「買っておいたらよかった」と思ってしまうこの頃です。
そんな後悔を少しでも晴らすため、最近タダジュンさんが装画を担当した本を集めはじめました。レコードの“ジャケ買い”ならぬ本の“カバー買い”。まだ買いだして間もないのですが、タダジュンさんは結構たくさん装画を手がけられていて、どの本もおもしろいんです。僕が読んだなかでは、ポルトガルの作家 ジョゼ・ルイス・ペイショットが書いた『ガルヴェイアスの犬』と、ドイツの作家で弁護士でもあるフェルディナント・フォン・シーラッハの『犯罪』という小説が良かった。特に『ガルヴェイアスの犬』は“へんぴな村にU.F.O.が墜落した”というキッチュな設定で、どこにでもいる人たちのしょうもない出来事を通して人生の機微を浮かび上がらせる、僕の大好物な作風。ヒトってどこまでもアホで不器用で愚かだけれど、愛おしい。そう思える作品です。
小説と音楽、フィールドは違いますがU.F.Oつながりということで、僕の頭の中では1940~50年代のロサンゼルスにあったチカーノ・コミュニティを題材にしたライ・クーダーの大傑作『チャベス・ラヴィーン』と重なっていたりします。
当たり前のことですが、こうしてカバー買いを楽しんでいても、本物の版画とブックカバーはまったくの別物で、僕の欲求が満たされることはありません。むしろ版画欲しい熱はさらに熱くなっています。
でも、今後作品を手に入れたとしても、金沢で買っていたら感じたであろうワクワク感は味わえないでしょう。やっぱり旅先での出会いは大切にしないといけませんね。
フィリップ・ワイズベッカー作品集
本屋さんで偶然見つけた、『フィリップ・ワイズベッカー作品集』を夜な夜な眺めるのが、近頃の一服タイムになっています。
フィリップ・ワイズベッカーさんはフランスのアーティスト、イラストレイターで、資生堂、サントリー、JR東日本、無印良品などの広告や、小山田浩子さんのブックカバーを手がけるなど、日本に馴染みが深いことでも知られています。彼の名前を聞いたことがなくても、作品のクセが強いので何かひとつ見れば、「だったらアレも、この人が描いたんじゃないの?」となるでしょう。
この人のクセ(個性)は、とことん余計なものを削ぎ落としたシンプルな鉛筆画。そして、独特のパース感。学校で習うデッサンのお勉強としては完全に間違っていて“いびつ”なんですが、不思議としっくりきて、引き込まれてしまうんです。直線がすべて定規で書かれているのも、なんかよく分かりませんが、すごく変態っぽい。この、“ヘンテコだけど気持ちいい”感覚は、J ディラのサウンドと似ているように感じます。
ワイズベッカーさんが描くのは、古いクルマや工具、工場など。どこにでもあるモノなのに、なぜか描かれたモノたちが時を重ねてきた、これまでの時間をあれこれ想像させる力をもっているんです。そうやっていろいろ思い巡らせていると、自分を取り巻く日常も“良さげ”に思えてくるんですよね。それは、彼が描くモノのどんなところに惹かれるのかをしっかり捉えているからでしょう。う〜ん、すんごい観察力と洞察力。僕もこの力をもってお気に入り熟女女優を見れば、きっと新しい世界が拓かれる気がします。
今回発売された作品集は、2000年以降に描かれた作品を網羅した内容で、彼の世界観を堪能することができます。作品集をつらつら眺めて感じるのは、彼の絵単体でも素晴らしいのですが、そこにタイポグラフがついてデザイン化された広告ツールも、それに引けを取らないくらい素晴らしいということ。こうした広告ツールをもっと取り上げてくれたら、僕的にはさらにGoodでした。あと、カバーの紙質はもう少し丈夫なものにしてほしかった。フニャフニャで、本体を入れても、たわんでしまいますやん!