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2019.10.20

悪の根拠

191020 『ジョーカー』観ました。評判通り、おもしろい。ホアキン・フェニックスの演技をはじめ、キャストとスタッフの気合いがビンビン伝わってくる快作でした。
 ただ、こういうことを言うと身も蓋もないのかもしれませんが、本作のような悪役の“ビギニングもの”を観ると、作品の善し悪しとは関係のないところでガッカリしてしまうんです。あれだけ怖かった怪物(悪)の底が知れてしまうというか、説明がついてしまうことに。勝手にイメージを膨らませていた余白を、「正解はコレです」と塗りつぶされるような気分になるんです。
 その最たる例が、ハンニバル・レクター博士。『羊たちの沈黙』では、常人の善悪の観念を超えたところで動く初老の天才に得体の知れない怖さを感じたのに、シリーズ作を重ねる毎にただの壊れたインテリ男になっていったレクター先生。そしてビギニングにあたる『ハンニバル・ライジング』では彼が狂ったエピソードが明かされ、「それじゃあ、並の犯罪者と同じじゃないの」と失望しました。

 『ジョーカー』も同じパターン。映画の前半では後にジョーカーになる青年アーサーが壊れていく様を丁寧に描いています。でも、丁寧に描かれれば描かれるほど、彼の狂気に理由があることが分かってシラケてしまうんですよね。それに、今回のアーサーが経験することって確かに悲惨ではありますが、多かれ少なかれ誰でもそういう目に遭ってますよね。だから、「アーサーよ、しっかりしろ!」という説教じみた感情が湧いてくる。そうなると、歯がゆさや物悲しさは感じるけれど、恐怖は感じません。
 当然ながら、こうしたジレンマは僕の勝手な思い込みと作品の方向性がマッチしていないだけの話で、『ジョーカー』は何も悪くありません。もっともこの作品は、こうしたツッコミをいなす作りにはなっています。

 同じように一人の平凡な男が堕ちていく様を描いた『ドッグマン』は、“ビギニングもの”のノイズがないので手放しで楽しめました。正確には、「手放しでブルーな気分になりました」です。
 主人公のドッグサロンを営む中年男マルチェロは、ささやかな幸せのために慎ましやかに生きようとしているだけなのに、何か自分で判断しなければならなくなった時、すべて間違った選択をしてしまう。アホやなぁと呆れつつも、「いや、人のことは笑えないぞ」と怖くなってくるんです。自分の弱い面がジワジワと浮き彫りになってくる感じといいましょうか。
 だから、この作品の場合は『ジョーカー』とは反対に、堕ちていく過程が分かれば分かるほど怖くなっていきます。映画の予告では「不条理」という言葉が使われていましたが、僕には条理の果ての物語に思えました。
 こんな話を淡々としたトーンで描ききったマッテオ・ガローネ監督に脱帽です。マルチェロを演じてカンヌ映画祭で主演男優賞を獲ったマルチェロ・フォンデさんの、どこまでが素で、どこからが演技なのか分からない“なりきりぶり”も凄いです。

 余談ですが、『ジョーカー』も『ドッグマン』も、町が重要な役割を果たしています。かたや誰もが知る悪名高きゴッサム・シティ。かたやイタリアのさびれた海辺のまち。特に海辺のまちは、とてもイタリアとは思えない、暗くてジメジメした雰囲気でインパクトあります。実際はナポリから40キロほど離れたところにあるコッポラ村というところだそうで、同監督が撮った『剥製師』と『ゴモラ』でも撮影をしているそうです。

posted by ichio